【八王子市】豊受姫尊稲荷 | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

美山通りから八王子城へと続く道を歩いています。

 

 

右手に古びた神社が現れました。社額は無く、鳥居も少し歪んでいるように見えます。

 

 

手水の竹筒も傾いでいますね。水は出ておらず、手水鉢には雨水が溜まっています。自然に落ちてきたのか演出なのか、松の枝があるのでおめでたい雰囲気になっています。

 

 

これは!五右衛門に斬鉄剣で斬られたような狛狐。とても風化して割れたとは思えない切り口ですね。

 

 

この神社の祭神は豊受姫のようですが、社殿の中を覗くとお狐様がびっしりと並んでいます。豊受姫の「受」の字は「食」を意味するので、稲荷神と習合して祀られているのでしょう。それにしてもこれだけのお狐様が納められているということは、今は見当たらないけど社務所で売られていたのでしょうね。嘗ての賑わいが感じられます。

 

 

神社を離れてさらに進んでいくと、右手に幟を持った桃太郎に出逢いました。左手にソフトクリームを持っているようにも見えるのは、まだ暑さが残っているせいでしょうか。

 

 

桃太郎がいたのは石材屋さんの店先で、反対側には道祖神もありました。猿田彦と天宇受売には見えない現代的な姿です。幼子をイメージしたんでしょうね。

 

次回も引き続き八王子城へ向かって歩いて行きます。それではまた!

 

P.S.

今日は、漱石の「吾輩は猫である」で描かれた「吾輩」の命日です。野良の黒猫で命日が記録されているのは吾輩くらいでしょうね。小説での吾輩の死因は、ビールを口にして酔っ払い、水瓶に転落したことによる溺死でした。ペットを飼うと居ることが当たり前の光景になり、それが日常になります。しかし当然のことながら生き物なので、いつかはいなくなる。日常が日常でなくなってしまう。それは即ち異常になる。異常な状態を元に戻すには時間がかかります。いない状態が日常になることに慣れなければなりません。それが分かっているなら、初めから生き物を飼わなければいいとも言えますが、人間はそれほど強くない。どんなに多くの人に囲まれていても、心が通じる人がいなければ孤独感は募ります。下手に言葉が通じるより、物言わぬ生き物の方が「分かり合える」こともあります。でも、そうやって分かり合えてしまったら、ますます離別が辛い。人間って、事程左様に感情に支配されているのです。世の中は理屈で成り立っていて、全ての事が理路整然と進むなんてことはないのです。僕はペットを飼うことも、理屈に巻き込まれることも避けています。それはこれまでの学習(経験)による判断です。生き物の生死や人々の感情をコントロールすることなんて出来ません。生物であれ人間であれ、干渉しない。そのスタンスが正しいか否かなんて言い出すことも、理屈なのです。嫌ってるというのとは違うのですよ。猫は大好きだし、人間も好きですよ。でもたぶん、人間を含めて、生き物と一緒に生活することはないでしょう。吾輩のような猫も人間も、毎日多くの命がこの世を去っています。その流れにいつか自分も呑まれる。それを喪失と感じて悲しむ人もいるでしょうけど、元からその人の日常にいなければ、そんなに大きなダメージにはならない。そんな風に思っているのです。