先週、仙台に行ってきました。

 

目的の一つは大川小学校でした。

 

小学生のお子さんをお持ちの方は一度は耳にしたことがあるでしょう。

石巻市立大川小学校の名前を。

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災で

多くの74名の児童、10名の教員の尊い命が失われた学校です。

 

大川小学校のことを知ってから私の中には無数の「なぜ?」がありました。

中でも一番強かったのは以下の「なぜ?」です。

 

なぜ津波が来ると知っていながら海へ逃げたのか?

なぜ50分間も何もせず寒いグラウンドにいたのか?

なぜ川沿いに建つ数ある学校の中で大川小学校だけが大惨事になったのか?

 

資料を読み、現地で撮影された写真も見ました。

どれも痛ましく、目を覆うものばかり。

 

でも…

 

あの地震の後、エンドレスで流れ続けた映像を見ている私にとっては

もはやそこからは何もわかりませんでした。

 

怖いですね、慣れというものは。

だから一度行かねばならないと思っていたのです。

 

 

 

石巻に到着したのは

雨が降り続けていた10月13日昼過ぎでした。

 

JR石巻駅からさらに車で30分、北上川沿いを走りました。

北上川の湖面には対岸の少し色づいた山がきれいに映っていました。

鏡のように穏やかな川面です。

大川小学校の子どもたちもこの川に見守られて育っていたのでしょう。

 

「この川が、あの日本当に…?」と疑ってしまいました。

 

北上川に沿うように走ると水色の薄い黄緑色の北上大橋が見えてきました。

あの橋の向こうにあるはずです。

 

当時、大川小学校の子どもたちが目指したという三角州に差し掛かった時、

眼下に広がる光景に息をのみました…

 

見渡す限り、何にもない更地に

痛ましく傷ついた姿で大川小学校がありました。

 

 

 

雨がやみ、厚い雲が晴れていき、青空が見えてきました。

 

無言…

沈黙…

 

風の音しか聞こえない。

 

でも大川小学校の校舎は私に強く強く、訴えかけてきました。

 

あの日何が起こったのか、

 

そして

 

ここがかつて幸福に満ちた、地域の人たちの“希望”だったことを。

 

 

無言の説得力、そんなものがあったのですね。

 

言葉の要らない、写真だけでは絶対に分からないメッセージ。

 

 

お地蔵さまが建てられており、花が手向けられていました。

帽子を目深にかぶった女性が掃除をしていました。

 

その女性は、触れたら何かが噴き出しそうな、張り詰めた様子で声をかけるのははばかられました。

女性は校舎に手を振って静かに去っていきました。

校舎に、ではなく子どもたちに手を振っていたのでしょう。

遺族の方か、教職員の方かわかりません。

 

 

現地に実際に立ってみたことで

抱いていた「なぜ?」の答えが微かに見えた気がしました。

そして新たな疑問を持ち帰りました。

 

津波到達地点を示す印。そのすぐ上に人が歩けそうな小道があった。

 

 

「先生たちがいなかったら助かった」

と遺族の方に言わしめた大川小学校の悲劇。

私は2009年まで仙台で教師をしていたことがあり、

この言葉を聞いた時、自分の仕事の責任の大きさを思い知らされました。

 

ただの悲劇で終わらせないために私たちはどうするべきなのか。

考え続ける必要があります。