昨日、僕は夢を見た。誰かはわからない男性(アメリカの思想家ケン・ウィルバーにも似ている)が僕の目の前に現れた。見た目はかなり年を取っているように見える。でも僕はその姿に釘付けになった。目を離すことができなかった。なぜならその人物は筆舌に尽くしがたい程の美を放っていたからだ。それは性別や年齢を超えた美しさだった。存在そのものから薫りたつ美といったらいいだろうか。彼は言葉も発することはなく、ただそこに立ち、微笑んでいた。「彼のようになりたい」と思った瞬間、僕の眼に映っていた彼の顔が近づき始め(僕が近づいたのか、彼が近づいたのかわからない)、次第にその顔は大きくなり、僕は彼と一つになった。
ただそこに在るということ、それは私は何者かであるということよりも重要である。
それは、何も失う恐れがないということであり、すべてを鏡のような心で受け入れるということ、
来るものを拒まず、去るものを追わず、である。そこには静謐さと平安がある。よけいな言葉を紡ぎだす必要もない。口から発せられる言葉や一挙手一投足に、明晰さと静けさが薫る。そこには、自己イメージも嫉妬も羨望もない。ただ行為だけがあるのみだ。この静かな視点にたった者は、ただ考えるということ、頭の中の多くの無粋な思考でさえもあまりの悪臭の故に、慎むことだろう。
見えないものを見るということ。見えないものを感じるということ。それは、このような静謐な空間に立って初めて見えてくるものなのだ。私は何者かである、この傲慢な思考は幻想であり苦しみを生む。存在論的苦痛といってもよいだろう。私は在るという時、私は全てを受け入れる、が故に私は穏やかにくつろぐことができる。
自由意志とはある意味で幻想だったんだと思う、もし自由意志があるとすれば、それは、今を受け入れるか、受け入れないかの二つだけだ。私は大きな流れの一部であり、その流れに無意識にも包まれていたということ、そしてその無意識から覚めた今では、その流れは私の前にはっきりと姿を現わすのだ。
それは、何も失う恐れがないということであり、すべてを鏡のような心で受け入れるということ、
来るものを拒まず、去るものを追わず、である。そこには静謐さと平安がある。よけいな言葉を紡ぎだす必要もない。口から発せられる言葉や一挙手一投足に、明晰さと静けさが薫る。そこには、自己イメージも嫉妬も羨望もない。ただ行為だけがあるのみだ。この静かな視点にたった者は、ただ考えるということ、頭の中の多くの無粋な思考でさえもあまりの悪臭の故に、慎むことだろう。
見えないものを見るということ。見えないものを感じるということ。それは、このような静謐な空間に立って初めて見えてくるものなのだ。私は何者かである、この傲慢な思考は幻想であり苦しみを生む。存在論的苦痛といってもよいだろう。私は在るという時、私は全てを受け入れる、が故に私は穏やかにくつろぐことができる。
自由意志とはある意味で幻想だったんだと思う、もし自由意志があるとすれば、それは、今を受け入れるか、受け入れないかの二つだけだ。私は大きな流れの一部であり、その流れに無意識にも包まれていたということ、そしてその無意識から覚めた今では、その流れは私の前にはっきりと姿を現わすのだ。
やる気もなく、なにもする気もないという時がある。そんな時、ただその状態を受け入れるのではなく、そんな状況に抵抗している自分がいる。
なにかに向かって努力している時、今という時が何らかの欲望を叶えるために存在するという感覚が持てるとき、そんなときは、どこかで不安な気分から逃れられるという気がする(心からそうしたくてしているわけではない)。よく感じてみるとその不安は、何者でもない自分になってしまうことに対する不安のような気がする。なにか自分(エゴ)にとって意味のあることをしていないと自分が駄目になってしまうのではないか、という不安や、誰からも評価されず、認めてもらえないのではないかという不安。
何者でもない自分とは、簡単に言い換えれば、誰にも評価されない自分。
なにもする気のない時意味もなくボーっとする時間、あるいはおいしいご飯を食べたり、お風呂の時間は、誰にも評価されるわけではないが、魂にとっては悦楽の時でもある。しかし時々、頭やエゴはこういった時間を無駄な時間という意味で嫌う。
頭やエゴはせいぜい「リラックスも必要だ」「食べないと頭が働かないからバカになる」「風呂に入らないと臭くなってもてなくなる」というぐらいで、あくまでもそれは何かのためには必要な時間、という意味で、その時間それ自体の価値を言っているわけではない。今という瞬間は、未来のための単なる踏み台になってしまっている。
『愛するということ』『自由からの逃走』を書いたエーリッヒ・フロムという人は、「私たちはto be(在るということ)という生き方よりもto have(持つということ)という生き方にかたより過ぎている」というようなことを言っている。持つこと中心の生き方とは、持つことによって自分の存在を支えている、あるいは支えようとしている、ということではないかと思う。持つということは決して物だけではなく、能力、お金、肩書き、名声、も入る。フロムは決して物欲を否定しているわけではない。モノによって自分の劣等感を癒したり、自分は何者かであるということを確認することによってのみ自己存在感を感じるような生き方を嘆いたのだと思う。
対して「在る」中心の生き方とは、自己存在が誰かの評価、あるいは何を持っているか、といったことで揺らがない生き方である。何者でもない自分でいることに何の苦痛もなく、むしろリラックスしているような感じ。
勉強ができなくとも、お金がなくとも、器量が悪くとも、どんな過去があろうとも、失敗しようとも、なんだろうが、「元気でいてくれれば、それでいい」と言ってくれるおばあちゃんのような生き方である。こんな人が身近に一人でもいるだけで救いだと思う。ただ社会システムはこのような生き方を肯定はしない。社会は、私たちに恐れを埋め込む。~しないと馬鹿にされるよ、なにか一つでもいいから人よりも優れているものをもて、あまったれるな、現実は競争社会なんだから、~を持ってないと~になっちゃうよ。とかいいながら。
人はこうして、優しさと穏やかさと緩慢さを失い、恐れと不安と焦燥感、劣等感と優越感、嫉妬、他人の不幸願望などを作り出す。
ジョンレノンも、晩年にこういった問題と向き合った。
「僕はヒットチャートで一位にならないと、自分は価値がないと思っていた。でもヨーコは、あなたは別にそんなことしなくてもいいのよ、といってくれたんだ」
「僕はそんなにすごい人間ではない。昔は、こんな風には言えなかっただろうね。」
「歩けもしないのに、僕は走ろうとしていた」多分こんなニュアンスのことを言ってた。
でもすこしづつ、こういった呪縛から逃れたいと思う。最近友人と話ていて「存在のエクスタシー」という言葉がふと浮かんだ。このエクスタシーはだれでも感じることができ、もっとも身近にあるものだが、もっとも感じることが難しい。
僕の好きなケン・ウィルバーという哲学者も言っている。
「私たちは、単にただ、ここにいるという感じを望まない。もっとリッチになりたい、もっと有名になりたい、目立ちたい、何者かになりたい。こうしてわたしたちは、ただここにいるという感じを切り刻む」
「ただここにいるといシンプルな感覚、そこでは嫉妬も羨望も何の意味ももたない。すべての幸福はわたしの幸福である。すべてのさみしさは、わたしのさみしさである。そのために、逆説的だが、苦しみはやむ。涙がやむことはない。微笑がやむこともない。ただ、この誰かであるという、この狂った感覚がやむ。」
「わたしはこのシンプルで、何の努力もない。ただあるという感じにとどまっている。その時、すべては与えられているのだ」
やる気がないとき、風邪をひいているとき、そんなときは、頭で色々考えずに(時間がもったいないとか、なんでやる気がでないんだとか、なんで風邪をひいてしまったんだとか)、あるがままに受け入れて楽しもうではないかい。
なにかに向かって努力している時、今という時が何らかの欲望を叶えるために存在するという感覚が持てるとき、そんなときは、どこかで不安な気分から逃れられるという気がする(心からそうしたくてしているわけではない)。よく感じてみるとその不安は、何者でもない自分になってしまうことに対する不安のような気がする。なにか自分(エゴ)にとって意味のあることをしていないと自分が駄目になってしまうのではないか、という不安や、誰からも評価されず、認めてもらえないのではないかという不安。
何者でもない自分とは、簡単に言い換えれば、誰にも評価されない自分。
なにもする気のない時意味もなくボーっとする時間、あるいはおいしいご飯を食べたり、お風呂の時間は、誰にも評価されるわけではないが、魂にとっては悦楽の時でもある。しかし時々、頭やエゴはこういった時間を無駄な時間という意味で嫌う。
頭やエゴはせいぜい「リラックスも必要だ」「食べないと頭が働かないからバカになる」「風呂に入らないと臭くなってもてなくなる」というぐらいで、あくまでもそれは何かのためには必要な時間、という意味で、その時間それ自体の価値を言っているわけではない。今という瞬間は、未来のための単なる踏み台になってしまっている。
『愛するということ』『自由からの逃走』を書いたエーリッヒ・フロムという人は、「私たちはto be(在るということ)という生き方よりもto have(持つということ)という生き方にかたより過ぎている」というようなことを言っている。持つこと中心の生き方とは、持つことによって自分の存在を支えている、あるいは支えようとしている、ということではないかと思う。持つということは決して物だけではなく、能力、お金、肩書き、名声、も入る。フロムは決して物欲を否定しているわけではない。モノによって自分の劣等感を癒したり、自分は何者かであるということを確認することによってのみ自己存在感を感じるような生き方を嘆いたのだと思う。
対して「在る」中心の生き方とは、自己存在が誰かの評価、あるいは何を持っているか、といったことで揺らがない生き方である。何者でもない自分でいることに何の苦痛もなく、むしろリラックスしているような感じ。
勉強ができなくとも、お金がなくとも、器量が悪くとも、どんな過去があろうとも、失敗しようとも、なんだろうが、「元気でいてくれれば、それでいい」と言ってくれるおばあちゃんのような生き方である。こんな人が身近に一人でもいるだけで救いだと思う。ただ社会システムはこのような生き方を肯定はしない。社会は、私たちに恐れを埋め込む。~しないと馬鹿にされるよ、なにか一つでもいいから人よりも優れているものをもて、あまったれるな、現実は競争社会なんだから、~を持ってないと~になっちゃうよ。とかいいながら。
人はこうして、優しさと穏やかさと緩慢さを失い、恐れと不安と焦燥感、劣等感と優越感、嫉妬、他人の不幸願望などを作り出す。
ジョンレノンも、晩年にこういった問題と向き合った。
「僕はヒットチャートで一位にならないと、自分は価値がないと思っていた。でもヨーコは、あなたは別にそんなことしなくてもいいのよ、といってくれたんだ」
「僕はそんなにすごい人間ではない。昔は、こんな風には言えなかっただろうね。」
「歩けもしないのに、僕は走ろうとしていた」多分こんなニュアンスのことを言ってた。
でもすこしづつ、こういった呪縛から逃れたいと思う。最近友人と話ていて「存在のエクスタシー」という言葉がふと浮かんだ。このエクスタシーはだれでも感じることができ、もっとも身近にあるものだが、もっとも感じることが難しい。
僕の好きなケン・ウィルバーという哲学者も言っている。
「私たちは、単にただ、ここにいるという感じを望まない。もっとリッチになりたい、もっと有名になりたい、目立ちたい、何者かになりたい。こうしてわたしたちは、ただここにいるという感じを切り刻む」
「ただここにいるといシンプルな感覚、そこでは嫉妬も羨望も何の意味ももたない。すべての幸福はわたしの幸福である。すべてのさみしさは、わたしのさみしさである。そのために、逆説的だが、苦しみはやむ。涙がやむことはない。微笑がやむこともない。ただ、この誰かであるという、この狂った感覚がやむ。」
「わたしはこのシンプルで、何の努力もない。ただあるという感じにとどまっている。その時、すべては与えられているのだ」
やる気がないとき、風邪をひいているとき、そんなときは、頭で色々考えずに(時間がもったいないとか、なんでやる気がでないんだとか、なんで風邪をひいてしまったんだとか)、あるがままに受け入れて楽しもうではないかい。
