久しぶりの考察記事です。(個人的には考察記事が一番好きです)

 

以前記事18『戚容はなぜ「絶」になれなかったのか』で戚容について考察したのですが、最近戚容の言葉をまとめたり、戚容に関してのコメントを拝見するうちに思うところがあり、第二弾を書いてみたいと思います。

 

(後半に戚容についてのネタバレを含むので、NGの方はご注意ください)

 

第一弾の時に思ったことは第一弾でまとめたのですが、その時から時間も経っていて、読み返すうちに考え方も変わってきたので、第一弾に書いたことと多少違うと感じる部分もあるかもしれません。それも含めて、考察の変遷を記したものとして考えてもらえたら嬉しいです。

ふと、戚容がずっと目指してたものって何だったんだろう...と疑問に思いました。

 

戚容は、戚容の母親(皇后の妹)が屋敷の侍衛と駆け落ちしてできた子供で、半年もしないうちに父親が本性を現して、母親に殴る蹴るの暴力を振るうようになり、戚容が五歳になる頃に母親に連れられて実家に戻っています。

 

つまり、戚容は五歳までの間、間近で母親が暴力を振るわれているのを目の当たりにしています。幼い頃に強いストレスにさらされると、人格形成に影響を及ぼしたり、脳が萎縮することがあると聞いたことがあります。もしかしたら、戚容が戚容になってしまったのは、そこに原因もあるのかもしれません。

 

皇族の醜聞は貴族の間で知れ渡り、同じ一族の子供は戚容を恥さらしだと思って、彼のことを嫌って誰も彼とは遊ばず、仲間外れにしたり、虐めることもありました。

 

そんな彼にとって、常に大勢から囲まれて、皆がこぞって誇らしげに鞦韆を押す太子殿下はきっと、眩しく輝く存在だったはずです。そんな太子殿下に憧れて、あんなふうに人気者になりたいと思ったこともきっとあったことでしょう。


けれど、成長してからも、あるいは鬼になってからも、「謝憐」を目指していたのかというと、若干違うように思うのです。

 

実は、第一弾では、''本当は一番真似したかった相手は、心から崇拝していた「謝憐」ではないか''と書きました。

 

でも、少しでも「謝憐」を目指すような気持ちがあれば、永安に復讐しようとしたり、人を食べたり、吊るしたりはするはずがないので、最近は彼が目指していたものは「謝憐」ではなく、かつての謝憐のように「皆から慕われたり、尊敬されること」だったのではないか、と思うのです。

 


別の側面から見てみます。

 

戚容は洞窟で、郎千秋に「本当に低劣極まりない p118」と言われた時、見事に逆鱗に触れています。彼は数百年の間ずっと、あらゆる神々や鬼怪達から「下品」だの「悪趣味」だのと嘲られ、そう言われることを極端に嫌がっていました。

 

つまり、そこが彼の弱点なのです。裏返せば、彼は極端に誰かからの「尊敬」に飢えていたんだと思います。

 

 

小さい頃も然り、成長してからも然り。

 

言うこと為すことがあまりにも残念すぎて、皇族ではあるものの、世話人も含めて心から誰かに「尊敬」されることがなかったんだと思います。

 

無駄に地位だけはあるので、表立っては誰も注意できないものの、「尊敬」はおろか、風信が戚容に対して思ったように「犬が吠えているだけ」と思われていたのかもしれません。

 

そして周りの態度から、彼自身もきっとそのことを深く分かっていたと思うのです。

 

口を突いてすぐに「下賤人」や「犬の分際で」と出てくるのは、きっと身分ぐらいしか人を動かせるものがなく、他の人に優っていると思えるものがなかったのでしょう。彼の中では日頃から、「下賤人のくせに、皆俺を見下しやがって」という気持ちもあったのかもしれません。

 

 

彼を鬼にならしめた執念は、「誰かから尊敬されること」だったのではないかと思います。

 

人間の時には満たされることなくそれを渇望し、鬼になってもなお、それは満たされることはありませんでした。

 

だからこそ、皆から畏れられる血雨探花や黒水沈舟を真似て、人工的に''血雨''を降らしたり、人を食べたり、他の「絶」を真似て自分の名前にも「色」をつけて「青灯夜遊」と名乗ってみたり。

 

そうすることで、自分も畏れられたり、尊敬してもらえると期待したのかもしれません。

 

けれど、どれだけ形だけを真似ても、中身が伴っていないので、やはり誰からの尊敬も得ることはできません。

 

どれだけ真似ても、結局は「低劣」「下品」「悪趣味」という評価しかもらえないのです。

 

 

 

最終的に、思いがけずその渇望を満たしてくれたのが、戚容が憑依した人間が連れていた子供の''谷子''だったのです。

 

「食べちまうぞ」と幾度となく脅しても、いつでも「父ちゃん、父ちゃん」と必死に自分を追いかけてくれて、自分が吹いたホラも、はったりも真に受けてくれて、戚容にとってそんなふうに「尊敬」してくれる存在は初めてだったに違いありません。

 

最終的に彼はそんな谷子のために、自分を犠牲にして守ります。

 

戚容の「容」の中には「谷」があり、「谷を守る」という意味が隠されています。

 

人間であった時も、鬼になってからも渇望し、誰も満たしてくれなかったもの。その唯一のものを満たしてくれた「谷子」を、彼は自分の命を投げて守ったのです。戚容にとっては、たった一人からの「尊敬」で十分だったのです。

 

 

実は、戚容は本当に消えたのか?というのが、自分の中ではずっと謎になっていました。

 

鬼が鬼たるには「執念」と「骨灰」が不可欠なのですが、谷子を庇って業火で燃えたとは言え、戚容の骨灰の在処は示されておらず、骨灰が無くなったわけでもないので、そのまま消えることはあるのだろうか?と。

 

人間の体に憑依したので、その分、鬼として弱くなっていて、謝憐に「俺を滅ぼすなら今のうちだ」みたいなことを自分で言っていたので、つい最近まで、鬼として弱くなっていたから業火で消えたのだと思い込んでいました。

 

でもここまで考察すると、もしかしたら、彼が欲しくて欲しくて手に入らなかった「尊敬」を、満たしてくれる人が現れたから、彼の執念が無くなって、それで消えたのかもしれない、と思い至りました。

 

 

少し話が逸れますが、そのことに思い至った時、あることを思い出しました。

 

昔、不朽の良書、カーネギーの『人を動かす』を愛読していたのですが、その中の文章を少し要約して、紹介したいと思います。

 

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人間が持つ最も強い衝動は、''重要人物足らんとする欲求''で、それはつまり、人間は常に他人に認められることを渇望しているのです。

 

それがどれぐらい強い欲求かと言うと、現実世界で自己の重要感を満たせなくて、狂気の世界でその満足を得ようとして、実際に精神に異常をきたす人もいるぐらいなのです。

 

もし正気の世界で、この欲求を満たしてあげることができれば、どんな奇跡でも起こすことができるし、相手の心を完全に自分の手中に収めることができるのです。

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(久しぶりに『人を動かす』を出して読んでみましたが、やはり時代を超えた良書ですね。

 

「人を動かす」真理が、事例や説得力ある説明で書かれていて、本当に素晴らしい本だと思います)

 

 

戚容が渇望していたのは、まさにこれだったのでは、と思うのです。

 

他人から認められたい、自分自身も大事な存在なんだと、誰かから思われたい。そんな渇望があったのではないかと思いました。

 

そしてその渇望は、戚容に関わらず、誰しもが心の中に持っているものなのです。

 

戚容はキャラクターとして少し誇張して描かれていて、現実離れした感じがありますが、彼を紐解いていくと、実際にいる人達の縮図なのではないかと思うことがあります。

 

中身が伴わず見かけだけ取り繕う「虚栄心」や、誰かから認められたいと渇望する部分など、もしかしたら彼の存在自体が何かの象徴のような感じもします。

 

少し深読みかもしれませんが、最近は戚容について、そんなふうに思いました。

 

天官賜福は奥深すぎて、何度考察しても全然し足りないし、読み返せばまた考え方も変わるし、本当に大好きです。