以前、「杯水二人」の問いに際しての、登場人物それぞれの選択について書きました。今回は少し違った視点で見ていきます。君吾に関するネタバレを含むので、ネタバレNGの方はご注意ください。

「杯水二人」の問いの本質は、決して相容れない二つの選択に際してどうするか、なのです。そして、これは天官賜福の物語の核心と言っても過言ではないと思っています。

 

二つの選択を突きつけられた人達

謝憐の父である仙楽国王は、干ばつの問題に直面し、干ばつ地域の民を救うのか、それとも国全体のことを考えてその地域の民を諦めるかを突きつけられました。

 

最終的には、城門を閉めて干ばつ地域の民を諦めます。国全体が慢性的な水不足に陥っている状況で、もし救うとなると国全体を干ばつの危機に晒すことになります。

 

それに、避難してきた民の数はあまりにも多く、別の街で全てを受け入れることもできません。一部だけ受け入れたら不満をもたらします。下手すれば国ごと混乱に陥って滅亡してしまうのです。

 

国王としては苦渋の判断だったのです。髪を真っ白にしてまで思い悩む姿からも容易に想像できます。

 

謝憐も後から、国王には国王の立場や圧力があり、その立場ではそうせざるを得ないと理解を示します。しかし、謝憐はどちらの民も諦めず、どちらも救おうとしました。

 

慕情と風信は、生活にも困る太子殿下に忠誠を尽くしてついていくのか、自分の生きる道を模索するかで選択を迫られました。半月は、国への忠誠か、犠牲者の数を最小限にするかの間で選択を迫られました。

 

裴宿は、半月の苦しみを減らすか、善人であるかで選択を迫られ、水師は実の弟と、無辜な他人の間で選択を迫られ、引玉は師弟である権一真への関心か、自分の自尊心かの間で選択を迫られました。

 

謝憐を刺した一般の人々は、自分や家族が生きることと、他人を傷つけず善人でいることの間で選択を迫られました。

 

第三の道を選んだ人達

謝憐は、人面疫への恐怖によって人々が殺し合うのか、自分が人面疫を発動させるかの間で選択を迫られ、人々に自分を刺させることで第三の道を作り出しました。

 

雨師国は、雨師国王の命か民の命かの間で選択を迫られ、雨師篁は自分の命を持って第三の道を作り出します。

 

謝憐は芳心国師をしていた時に、郎千秋を守るか仙楽遺民を守るかの間で選択を迫られ、自分を犠牲にして第三の道を作り出しました。

 

水師は死ぬ間際に足掻いて、自分を犠牲にすることで弟に第三の道を作り出しました。

 

黒水は復讐か友情かの中で苦しみ、最終的には水師の作り出した第三の道を黙認しました。

 

君吾が太子だった時、火山が噴火して民がたくさん犠牲になる予知夢を見て、民を諦めるか、他の国に戦をして領土を広げ、民を移住させるかの選択に迫られ、彼は天に橋をかけて天に避難させるという第三の道を作り出しました。(しかし最終的には力が及ばず、失敗します。)

 

選択の代償

元々二つの選択は「相容れない選択」なのです。心を鬼にしてどちらかを選べば良い、という単純なものではなく、きちんと対処しないとその代償は大きく、時には誰かの命、時には国家全体が代償になります。

 

仙楽国王は一部の民を放棄したことで、干ばつ地域の筆頭者である郎英によって国ごと転覆させられました。

 

水師は無辜な他人を犠牲にしたことで、最終的に復讐されて命を落としました。あれだけ必死に守ろうとした弟も無事ではいられませんでした。

 

引玉は、悔いを残したまま生涯を閉じています。裴宿は神官としての行いが罪に問われ、天界を追放されました。

 

太子だった君吾も謝憐も、元々は民を諦めたくなくて奮闘したのに、結果的に失敗したことで、民によって神台から引き摺り下ろされました。

 

善意の見返り

白無相がもし杯水二人の問いに答えるならば、きっと水をどちらにもあげず、捨てることを選びます。

 

元々は「善意」から自分を犠牲にしての行動なのに、救った人からは感謝されないし、人の欲望は無尽蔵なので、全ての人を満足させることはできないのです。

 

一杯あげれば、もう一杯ねだられる。救えなかった人からは恨まれる。そして最終的に神廟を燃やされ、神像を倒され、神台から引き摺り下ろされるのです。

 

もう虚しさを通り越して、一層の事、初めから誰も救わない方がまだマシだと思うようになるのも、無理はないように思います。

 

天官賜福は、ただ善人と悪人が登場するだけの物語ではなく、どの登場人物もそれぞれの立ち場ではそうせざるを得ない理由があり、

元々「善人」なのに、立ち場や運命に翻弄されてどうしようもない中で「善の対極」に身を置かざるを得なくなるのです。

 

天官賜福は、悪人に対してとても心が痛みます。個人的にはむしろ、悪人に対してこそ、心が痛みます。

 

手を差し伸べる人

謝憐が過去編で、雨師に法器を借りに行った時に、牛からこんなことを言われています。

 

「雨師様があんたを助けるとしたら人情からで、助けないとしたらそれは本分じゃないからだ。あんたに貸すとしたら気分が良いからで、貸さないとしても後で恨み言を言われる筋合いはない」

 

多分そういうことなのです。誰かが見知らぬ他人を助けるということは「善意」からで、助けないとしても恨み言を言われる筋合いはないのです。

 

他の神官達は、仙楽国の状況を分かっているにも関わらず、謝憐の訪問の意図を分かっていて扉を閉ざしていました。面倒ごとに関わりたくないのです。つまり「見て見ぬふり」です。そして現実世界ではおそらく「見て見ぬふり」をする人が圧倒的に大多数なのです。

 

自分もその中の一人だと思っています。自分は、決して謝憐のように自己犠牲ができる人にはなれないけれど、せめてこの時の雨師を見習いたいと思うのです。

 

人生は選択の連続

現実社会の中では、成長とともに、あるいは年齢を重ねるとともに、相容れない二つの選択を突きつけられる場面はあまりにも多くなります。しかし大多数の人は、心を鬼にしてどちらかを選び、片方を犠牲にします。

 

例えば、子供との時間か、キャリアか。地に足のついた生活か、夢を追いかけるか。

 

心を鬼にして片方を犠牲にする度に、心のどこかが死んでいくように思うのです。そうして繰り返し「選択」に直面することで、徐々に心は枯れていくのです。

 

謝憐が眩しいのは、彼が常にどちらも諦めずに、第三の道を模索するからなのかもしれません。

 

第三の道は自分を犠牲にしているので、犠牲は果てしなく大きいですが、少なくとも心は死んでいないように思うのです。だからこそ、初心をずっと持ち続けることができるのかもしれません。

 

彼の勇気や、一貫した善意を目の当たりにすると心が温まるし、自分ももう少し良い人間になりたくなります。

 

一念橋の鬼

君吾は、正の側面が模範的な存在である「帝君」となり、負の側面が白無相や一念橋の鬼に化身したという見方もあります。

 

鬼は長年一念橋を徘徊し、道行く人に、“ここはどこか”  “私は誰か”  “私はどこに行くべきのか”の三つを問いかけます。

 

この鬼が君吾の負の側面の化身と考えるならば、きっと民に裏切られた後、鬼と化して自分を見失い、これらの答えがはっきりしなくて成仏できないのです。

 

この問いは、私達も人生で岐路に立った時や、このままで良いのか?と迷子になった時に、向き合う問いではないでしょうか。「自分は何者か?」「なりたい姿は何か?」「どの道が正しいのか?」

 

人生は選択の連続ですが、環境や他の要因によって流されて自分を見失うのではなく、これらを自分に問いかけながら、主体的に選択していきたいと思うのでした。

 

天官賜福は、やるせない究極の選択をたくさん描いています。どう選んでも正しい答えではない気がするし、自分を犠牲にして「善意」を差し出した人達があまりにも報われなくて、時に哀しくなります。

 

それでもなぜか、物語全体を通して明るい希望に溢れていて、前進する勇気をもらえるのが、本当に素晴らしいところだと思います。

 

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だいたい締めくくりは ''この物語は素晴らしい''という結論になりがちです。でもこのブログ自体、天官賜福を愛でるブログなので、それで良いと思っています。いろんな視点で、いろんな角度で、とにかく日々愛でてます。

 

今回も、新版の改編についての記事ではなくてすみません。まだあれから読み進められていません。最近はテーマに沿って言葉を集めた記事や、新版の改編箇所を書いた記事が続いたので、考察系の記事が書きたくなりました。

 

考察記事は書く過程で思考がまとまるので、書いた後の達成感が一番あります。個人的には考察記事が一番好きです。

 

 

余談です。

仙楽国の話を書いていたら、思い出したことがあり、書いてみたいと思います。

 

十数年ほど前に縁があり、アフリカの飢餓や貧困問題に取り組んでいる方から、ある話を聞きました。

 

その地域では、住んでいる人の数に比べて圧倒的に食糧が足りず、常に一定数しかないのです。そのため、飢餓の問題が深刻でした。

 

もし外部から支援をして、今困っている人達に救いの手を差し伸べると、本来飢餓や病気で死ぬはずだった人達が生き延びて、結婚して、一人の女性が何人もの子供を産んで、元々一定数しかない食糧に対して、人が更に増える。

 

そうすると、五年後、十年後には飢餓や貧困に苦しむ人はさらに増える。

 

支援するのが正解か、支援しないのが正解か。そんな問いを突きつけられました。

 

 

その時の自分は答えが出ませんでした。

 

その時はただ、自分が神のような視点で、救うか救わないかの選択ができるのは、とても傲慢で、恐ろしいことだと感じました。

 

誰かが死に直面し、生き延びられるかどうかの瀬戸際で、自分が差し出す薬一つ、栄養食一つでその人の生死が決まるのです。

 

これらの支援物資は、一人分が百円にも満たない程度のものなので、手を差し伸べようと思えば、簡単に手を差し伸べることができます。

 

死に直面している人はきっと生きたいと望むし、助けてほしいと思うはずです。手を差し伸べれば感謝されるかもしれません。けれど長い目で見て、それは正しいことをしたのか?と考えると分からないのです。

 

では、長い目で見て正しくないかもしれないから、目の前の人を見捨てるのは正しいか?と考えると、それも違うと思うのです。

 

命の重さは同じなのに、ただ先進国に身を置くだけの自分が、そんな恐ろしい「選択」ができる状況下であることに、ある種の怖さを感じました。

 

ただ生まれた国や環境に恵まれただけで、人の命運はここまでも違うのかと、愕然としたことを覚えています。

 

 

正直、今でも答えは分かりません。元々正しい答えはどこにもないのかもしれません。

 

謝憐なら目の前の人を見捨てないし、将来苦しむ人も見捨てないと思うのです。謝憐なら、第三の道をどう作り出すのだろうかと、考えさせられました。

 

人生だけでなく、世界には「杯水二人」のような問題で溢れています。

 

でも心の中に謝憐がいれば、彼はこの状況ならどう行動するか?を常に道標にできそうな気がします。