最近気がついたのですが、過去編で語られる「杯水二人」の問いは物語全体を貫くテーマの一つだと思います。このエピソードをあまり深く考えたことがない方も多いかもしれません。今一度、見ていきたいと思います。ネタバレを含む部分があります。最後まで未読の方はご注意ください。

過去編で、師匠である梅念卿が謝憐に「杯水二人」について尋ねる場面があります。

 

「二人が砂漠を歩いていて、喉が渇いて瀕死だった。残された水は一杯のみ。飲めば生き延び、飲まなければ死ぬ。君が神ならば、その水を誰にあげるのか?」

 

この問いの本質は、その人の選択基準と価値観を浮き彫りにする問いなのです。

 

謝憐の選択

謝憐は、どちらか一方ではなく「もう一杯与える」という''第三の道''を選びました。この時国師は「それは理想的だが、それを成し遂げることは基本的に不可能だ」と言います。

 

しかし、この後の謝憐の生き方は、常に''第三の道''を選択するものでした。往々にして、第三の道は、彼自身の''水''を差し出すことなのですが、彼はどんな状況でもその信念を守っています。

 

・国師から、祭天遊を乱した子供を贖罪として感覚の一つを封印させるか、謝憐が懺悔して面壁するか、の選択を突きつけられた時に、どちらも選ばず、下山して鬼退治することを選びます。

 

(旧版でははっきり書かれていませんが、新版ではここは改編されて、この時国師に「どちらも選ばないなら、下山して鬼退治して功徳を積んできなさい」と言われ、謝憐が第三の道を選んだことが明確に書かれています。)

 

・鎏金宴の事件では、仙楽遺民も、郎千秋も守りたくて、自分が全ての罪を被って処刑されることを選びます。

 

・半月国では、戦の際に双方の民を守りたくて、自分自身が降格する罰を受け、最終的に踏み潰されます。

 

・花城と郎千秋が戦えば、双方の攻撃を自分が受けることを選びます。

 

・人々がお互いに殺し合うか、人面疫を発動するかを突きつけられた時に、自分がめった刺しにされることを選びます。

 

謝憐は、どちらも救うために、常に''第三の道''を作り出します。そして''第三の道''を作り出すために自己犠牲することも、なかなかできる人がいないからこそ、貴いのです。謝憐は満天の神官の中で、一番''神''らしい心の持ち主と言えます。

 

慕情の場合

慕情の答えは、「その二人が何者で、どのような人柄で、どういった功罪があるのか、素性を知った上で決める」というものでした。それは“生かす価値が高い方を生かす”ということです。これはとても合理的かつ功利的な判断なのです。後の彼も、選択を迫られた時に、常に合理的かつ功利的な選択をします。

 

与君山で謝憐の花轎の周りに鄙奴が集まったとき、あまりの数の多さに膠着状態になります。この時、慕情は謝憐には若邪があるので一時的に危険がないことを考え、そのままその場にいても埒が開かないので、武官たちを先に安全なところまで送り届けてから謝憐を助けに来ようと思います。冷たく感じるかもしれませんが、余計な感情を挟まず合理的なのです。

 

そして、謝憐が天界から追放されて、謝憐はもとより、謝憐の両親や風信も含めて全員食べるものにも困っている時に、みんなで野垂れ死するより、自分が中天庭に戻ることで突破口になって、みんなの窮地を助けることができると考えます。そこも合理的な選択なのです。

 

三十三人の神官と謝憐が対峙した時、彼は三十三人の神官側に付きます。彼の当時の状況を考えるとこれも合理的な選択なのです。

 

彼は中天庭に戻ったばかりの新人で、三十三人の神官を敵に回して良いことは何もありません。もう何もない謝憐に付くメリットもないし、たとえ彼が’’情''を重んじて謝憐側についたとしても''三十三人''対''二人''なのです。勝算があるとは思えません。

 

合理的ではあるけれども、その後謝憐の様子を見に行ったことを考えると、彼の中でもそれなりの葛藤はあったと思います。

 

風信の場合

風信は「わかりません!そいつらに自分で決めさせてください!」と答えています。つまり、彼は選択することができなくて選択すること(向き合うこと)から逃げたのです。選択することができないというのは、自分には誰かの生死を決める権利がないと思っているからかもしれません。そして同時に、彼が優柔不断で、他の人に選択を委ねることも示しています。

 

謝憐と共に追放されて、日々の生活にも窮する時、彼は謝憐のそばにもついていたいし、愛する人の身請けもしたいしで、常にストレスを抱えていました。ついに、そんな様子を見かねた恋人の剣蘭に別れを切り出されて、そのまま別れてしまいます。剣蘭が彼の姿を見ていられなくて、彼の代わりに決断してあげたのです。そうして彼は、そのまま愛する人とすれ違ってしまったのです。

 

そして、太子殿下が強盗するようになり、汚い言葉と使うようになると、彼は見ていられなくて、謝憐に言われるがまま、太子殿下のそばも離れました。

 

神官になって、かつての剣蘭と再会し、胎霊という子供がいることも知った後も、彼は結局最後まで子供を受け入れることができていません。剣蘭親子に対しては責任を取りたいとは言うものの、最終的には剣蘭親子が離れるがまま、説得してそばにいてもらうようなことはしませんでした。

 

彼は自分で選択することをせず、常に他人に選択を委ねているのです。

 

花城の場合

彼の行動から、「杯水二人」に直面した時の選択を読み解いていきます。

花城が謝憐を好きになったのは、ただ単に子供の頃に助けられたことと、その時に自分の存在を初めて肯定してもらえたことだけではありません。彼らは内面の奥底で共鳴する部分があったのです。

 

 “鬼市”や“賭坊”を開くのは、いろんな誹謗中傷をもたらします。それでも彼がこういったものを開いたのは、必要とされている以上、誰かがしないといけない、と思ったからです。それなら他の誰かが掌握して、制御できない諸悪の巣窟になるより、自分で掌握して、制御できる方が良いと思ったのです。

 

銅炉山に人間が多数迷い込んだときに、彼は迷い込んだ人間達を助けようと導きます。そして多くの鬼に囲まれて窮地に陥り、その状況を突破する武器を作り出すために献祭(いけにえ)が必要になります。本来は、そこにいた人間を献祭しようと考えますが、彼はそうはせず自分の右目を献祭します。

 

謝憐が人面疫を発動しかけた時、永安人が人面疫を患うのか、謝憐が犠牲になるのかの選択の間で、花城は自分自身が犠牲になることを選びました。これもまさに''第三の道''です。

 

これらの行動から、花城は「杯水二人」の問題に直面した時に、無理に選択を出すのではなく、自分を犠牲にすることで''第三の道''を作り出すことが分かります。つまり花城も''第三の道''を選んでいるのです。

 

最初の頃は、花城はただただ謝憐を愛していて、謝憐だけのために犠牲になるのを厭わないと思っていたのですが、こうしてみると花城の根幹には、謝憐と同じ部分があります。

 

師無渡の場合

彼は、弟が白話真仙に取り憑かれた時、他人の''水''を横取りすることで、弟を助けました。「弟」と「他人」の間で、彼は間違いなく「弟」を選ぶのです。いや、「正義や善」よりも「弟」を選ぶと言った方が正しいかもしれません。

 

黒水は復讐の集大成として、師無渡と師青玄に選択肢を二つ与えます。師無渡は「自分」か「弟」かの間で、迷わず「弟」を選びます。師無渡は死ぬ前にあがいて、自分の死をもって、愛する弟に“第三の道”を作り出しました。彼の選択は、彼の言葉に集約されています。“ないものは勝ち取るまで。我が運命は天ではなく私が決める”。

 

師青玄の場合

彼の行動が答えを物語っています。彼が「杯水二人」に際した時は「一人に半分ずつ」あげる人なのです。そしてその結果、どちらも足りず、どちらも生き残ることができない結末が待っているのです。

 

兄の天劫に際して、彼は兄の悪行も全て知った上で、命格を奪われた賀玄に対しての罪悪感を持ちつつ、実の兄を放置することもできなくて、結局兄の元に向かいます。

 

そして、賀玄に突きつけられた二つの選択肢で、彼は「自分の命格を低俗なものに変えて、兄を人界に追放する」方を選びます。しかし師無渡には、はっきりとわかるのです。そんなことをしても結局二人とも生き残れないと。彼は長年の傲慢な行いで天上天下、仇だらけなのです。

 

師無渡は自分の命と引き換えに師青玄の命を守りました。そして、賀玄も師青玄の命を取らずに残しました。師青玄はもはや、自分自身を殺して解脱を得る権利さえないのです。自分自身の命は兄が自らの命を持って引き換えたものだから。

 

最終的に師青玄は唯一の家族だった兄も、一番仲の良かった友も失い、彼は罪悪感の中で余生を生きるしかないのです。

 

黒水の場合

黒水はそもそも、師無渡によって''水''を奪われたことで死んだのです。そして鬼になり、復讐する時に、彼は“水”を与える側の人間になり、師無渡と師青玄に選択肢を二つ与えます。選択肢を二つしか与えていないのに、師無渡は死ぬ前にあがいて、弟のために“第三の道”を作り出しました。

 

彼は、師無渡によって作り出された“第三の道”を罵りながらも、最終的には容認しています。黒水は''水を与える側''の人間なので、それを容認するかどうかも彼の一存です。それでも最終的に容認したのは、彼も本当は心の底では、師青玄に''第三の道''を与えたかったと思うのです。

 

ちなみに、謝憐が''もう一杯の水を与える''と答えた時、梅念卿はこう返しています。「天下にある気運は全て一定の数しかない。誰かが飲めば、誰かが減る水と同じだ。命格を他人と入れ替えることは、できなくはないが、それによって他人の命数も変わり、怨恨と罪業を増やすことになる。」これはまさに、師無渡と黒水のことを物語っています。

 

君吾の場合

君吾もかつて謝憐と同じ“もう一杯”与えようとする人でした。しかし、その“もう一杯”を作り出すことは、自分の骨身を削る大変なことなのです。二者を助けた後、喉の渇きを訴えているのが二者にとどまらず、何百人、何千人、何万人いることが分かり、自分の力に限りがあることを思い知ります。

 

骨身を削って人を救っても、人は欲深く満足を知らず、もっともっと沢山求められるのです。全てを尽くして満身創痍になっても、感謝さえされなくなります。そして彼は思います。人々は救う価値がないと。彼はどちらも救わない人になります。

 

それでも彼の心は依然として矛盾を抱えていました。もしかしたらその矛盾が彼を分裂させたのでは、という見方もあります。善の側面が人々の望む、完璧な神官である''君吾''を作り上げ、負の側面がいろんな鬼と化したのではないか。そして、片手で仙京を作り上げ、もう片手で銅炉山を作り上げたのではないか。

 

 

まとめ

こうして見ると、「杯水二人」の状況に際して、それぞれどう行動しているのかがよくわかります。「杯水二人」のエピソードがここまで深く物語を貫いているとは思いませんでした。

 

ここまでくると、自分なら「杯水二人」の状況に際してどう行動するのか?を考えずにはいられません。謝憐のように、自分自身の''水''を差し出して、自分が死ぬことを選ぶことは到底できません。

 

自分ならきっと慕情のように、与える価値がより高い方に与えようとするかもしれません。極端な話、二者が悪人と善人ならば、善人に水を与えると思います。

 

どちらかを選択することは、どちらかを放棄することなのです。そして、最大多数の最大幸福をもたらす方が、自分に対しても、誰かに対しても言い訳ができ、罪悪感を減らすことができるのです。そう思うと、自分は慕情に少し似ている部分もあるのかもしれません。

 

君吾が好きと言ったり、慕情に似てると言ったり、書けば書くほど自分の心象を悪くしているような気がします絶望