立て続けに君吾の記事ですみません。昨日の記事に入れるつもりで途中まで書いたのですが、分かりにくくなったので、独立した記事にしました。ネタバレを含むので最後まで未読の方はご注意ください。

「君吾は謝憐に繰り返し課題を与えて、謝憐がどう選択するのかを観察した」というのは何度も書いてきました。

では、一つ一つの課題に対して、君吾は結局、謝憐にどう選択してほしかったのか?そして、謝憐はどう行動したのか?それが自分の中ではずっと整理しきれない部分があり、今一度、君吾の気持ちになって考えてみました。

 

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【君吾】人面疫や仙楽国の滅亡を通して、自分の力ではどうにもできないことがあり、万人は救う価値がないことを教えたい。

 

【謝憐】神でありながら人界の戦に手を出す。干ばつが起これば法力を尽くして雨を降らそうと奮闘する。人面疫が流行り国が滅びそうなのが分かってても、自分の力で何とかしようと頑なに思い、万人を救うことを諦めなかった。

 

【君吾】人面疫は人を殺すことでしか感染を免れない。疫病が怖ければ人々は殺し合うことになる。どうだ?絶望的な状況だろ?仙楽国民を救いたければ、そして国が滅ぶのを止めたければ、君自身が人面疫を発動するんだ。

 

【謝憐】人々が殺し合う状況も、人面疫の発動も選択せず、自分自身がめった刺しにされることを選ぶ。''杯水二人''の話で出てきたように謝憐は第三の道を選んだのです。

 

【君吾】救いたいと思っていた人々から滅多刺しにされ、侍従達も両親もそばを離れ、絶望の淵にまで追い込まれただろ?これだけ追い込めばさすがに人面疫を発動するよな?

 

【謝憐】発動しかけるけど、最後の最後で気が変わる。呪いは自分が受ける。(結果的に黒武者が代わりに受けたけれど、元々謝憐は自分が受けるつもりだった。)

 

【君吾】どうしてお前はいつも俺の望む選択をしないんだ!人面疫を発動しかけたことで、お前の唯一の信徒がお前のせいで消えたんだ。お前はそれを悔やむがいい。絶望すればいい。全部お前のせいだ。苦しめ。

 

【謝憐】自分の過ちも弱さも認めて、自分から追放を申し出る。(君吾は自分の過ちを認められなかった人だった。あれは仕方がなかった、と正当化することでしか生きて来られなかった。)

 

【君吾】人界でたくさん苦労して、すり減って、希望も、勇気も、信念も失うがいい。失ったら、再び教育してやる。お前はいずれこちら側の人間になるんだ。

 

【謝憐】自分の国を滅ぼした国の太子を助けその国で国師をする。おまけに大虐殺の罪を一人で被って棺桶に釘刺しにされる。半月国で両方の百姓を救う。ガラクタを集める。大道芸人をする。なんだかんだ八百年穏やかに生きる。そして再び飛昇する。

 

苦労はしているかもしれないけど、全然懲りないし、すり減ってない。希望も、勇気も、信念もどれも失わない。八百年前の謝憐と変わらない。何なら後に、謝憐が芳心国師だとバレた時も、相変わらず罪を一人で被ろうとする。

 

【君吾】また飛昇してきたのか。新しい課題だ。上天庭の神官は何かしらの後ろ盾がある。後ろ盾がある権力者に対して、もしくは自分と仲が良い神官に対して、自分の信念を曲げて、融通を利かすようなことをするのか、見せてもらおう。(裴茗、裴宿、水師・風師、霊文)

 

【謝憐】権力者でも、仲が良い神官でも、融通を利かすことをしない。どんな権力者であっても、正しいことは正しいし、罪があれば突き出すし、過ちを犯せば償う必要があると考える。(やっぱり何ら八百年前の謝憐と変わらない。)

 

【君吾】かつて謝憐を裏切った慕情を呼び出し、謝憐が慕情を疑うように仕向ける。

 

【謝憐】え?疑わないし、心から信じてるけど。何か?

 

【君吾】最後、ぶち切れる。謝憐の頭を掴んで岩壁に何度も何度も、血まみれになるまでぶつける。痛いだろ?痛いだろ?どうして痛いのに、改めようとしないんだ!どうして俺の望む通りにならないんだ!

 

【謝憐】それでも改めるつもりはない!永遠にだ!

・・・それを聞いて君吾は発狂しそうになります。

 

 

君吾は謝憐に自分の信念を曲げさせたくてたまらないのです。自分がそういう生き方しかできなかったから。どんなことがあっても信念を曲げずにいられる謝憐がたまらなく憎いし、同時に眩しいのです。

 

謝憐が信念を曲げなければ、自分も本当は曲げない生き方もできたのかもしれないと、自分の進んできた道が間違ったことを認めることになります。謝憐も信念を曲げて、自分と同じようになれば良いのに、と思うのです。

 

しかしどんなことをしても、どんなに窮地に追い込んでも、謝憐は信念を曲げません。いかに謝憐が君吾の思う通りに動いていないかがよくわかると思います。

 

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神官の話だと思うと、馴染みがなくて実感が湧きにくいかもしれません。例えが適切かどうか分かりませんが、少し例えてみます。

 

君吾が大企業の敏腕社長で、謝憐は優秀な息子です。

君吾は利益のために手段を選ばない人で、いろんなところから搾取したり、打算的で立ち回りもうまい、そういう意味で''器用な''人です。

 

若い頃はそうではありませんでしたが、一度大失敗してから、利益に貪欲になり手段を選ばなくなりました。理想だけでは飯は食えない、心の底からそう思ったのです。

 

息子の中で一番優秀で、自分の若い頃の面影があって可愛くて仕方がない謝憐を、次の敏腕社長にしたいと思っていました。かつての自分の経験から、謝憐には自分と同じように利益に貪欲で、立ち回りが上手い人になってほしいのです。しかし謝憐は理想ばかり追いかけて、なかなか思う通りの姿になりません。

 

父としては、理想だけで飯が食えると思ってるのか!お前は甘い!と思うわけです。自分の若い頃そっくりの未熟な謝憐を何とか’’教育’’しようと思います。

 

色々コネを使って息子を窮地に追い込み、信念を曲げさせようと苦心しますが、息子は決して曲げません。謝憐は自分が大損しても、取引先を儲けせたいと思うような人でした。いつもそんな馬鹿みたいな行動ばかりとるのです。

 

怒りに任せて、お小遣いもカードを止めて、家を追い出して、外で辛い目にあって反省してほしいと思います。しかし、当の息子はプライドも何もなく、毎日ガラクタ集めしたり、大道芸人をしたりして、なんだかんだうまく生きます。

 

もうそれならそれで、もういいや、と思いたいところですが、明らかに子供の中ではダントツに優秀で、素質もあり、三度目の飛昇をしてしまうのです。何百万人に一人、一生をかけて修行して、やっと飛昇できるかどうかの狭き門なのに、この息子は三度目の飛昇をするぐらい優秀なのです。(←もはや例えじゃない...)

 

父としてはもう、どれだけ腹が立つかわかりますよね。息子が信念を曲げないと、かつて窮地に陥った時に自分が信念を曲げて利益のために手段を選ばない人間になったことが、心が弱かったんだと認めざるを得ないのです。そんなの認められるわけがありません。

 

最終的に、謝憐は自分の信念を守ったまま父親を越えます。自分自身が理想で飯を食って見せただけでなく、周りの人達も食わせます。父親としては負けを認めざるを得ないし、必然的に自分が間違っていたことを認めざるを得ません。それでも息子の立派な姿に、負けて嬉しいやら、誇らしいやら、複雑な気持ちになります。

 

そんな感じなのではないかと思います。(例えが微妙だったならごめんなさい🙏他に良い例えが浮かばなくて...)

 

 

君吾は間違いなく謝憐がとてつもなく可愛いのです。自分の灯の数に近づきそうな他の神官は即座に蹴り落とすのに、謝憐が自分の灯の数を余裕で超えても微笑ましく見ていられるのです。

 

多分、謝憐に対しては本当に父親みたいな気持ちだったと思います。若い頃の自分に似ていて、同じ失敗をして欲しくないあまりに、先回りしてそれを教えてあげたい。でも当の本人は有り難くそれを受け取ってくれない。親子でもそんなことってありますよね。親の心、子知らず、みたいな状況。(←どっちの味方)

 

君吾からするとそんな心境なのかなと思います。

 

 

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以下、余談です。

 

年齢を重ねると、子供の頃や若い頃のように、頻繁に''成長した''と感じる機会が減ります。自分の場合は、一つの物事に対しての見方や考え方が変わる時に、成長したと感じることが多いです。

 

天官賜福を読み返す度に、登場人物や物語に対しての考え方も変わってきます。君吾なんかは、何度もまとめているし、その度に観点が変わっています。一つの物語なのに、読み返す度に違った発見があり、違ったことを感じる自分に出逢えます。

 

昔恩師に「言語化できなければ、本当に理解したことにはならない」と言われたことがあります。そのため、テーマを決めて、そのテーマに沿って読み直して、ブログで書くことで言語化しています。

 

(少し話が逸れますが、三周目、四周目するときは、何らかの仮説やテーマを持って、その根拠を探したり検証するように読むと、新しい見方ができておすすめです。自分の場合は漫然と読むと、本能的に好きなところしか意識が向かず、それ以外の箇所は読み流してしまいがちなので、意識的にそうしています。)

 

つまり、自分にとってブログにまとめることは、自分の考え方の変遷を記録していることでもあります。もちろんそこには、主観、偏見、こうであってほしいという願望など、不純なものもたくさん混ざっています。混ざっている不純なものも含めて''今の自分''だと思うのです。あくまで自分用に、考えを整理するための意図が強く、訳も大まかな意訳です。

 

天官賜福は本当に奥が深く、解釈が読み手に委ねられている部分がたくさんあります。十人十色の解釈があると思っています。

 

そのため、決して解説を書いているつもりはないので、考察が当たった、外れた、訳が違った、などは責任が持てないので、あらかじめ謝憐のような慈悲深い心でお許しくださいませ。

 

あくまで、この信徒はこんなふうに解釈しているんだな、こんな解釈もあるんだな、ぐらいに思ってもらえたら幸いです。