時々君吾の考察を挟みたくなるのは、多分いまだに君吾に対して完全に満足のいく考察ができていないからなんだと思います。時間が経つと新しい見方が出てくるので、最近の思うところを書いてみます。少し長いので、是非お時間がある時にどうぞ。(どちらかといえば最後まで読み終えた方向けの考察です。ネタバレがあるので未視聴の方はご注意ください。)

君吾はただ単に、謝憐に嫉妬している、そして謝憐を後継者にしようとしている、だけではないと思うのです。ただ単に後継者にしたいだけだと浅いような気がして、自分自身腑に落ちなかったのです。後継者にするということは、何かを成し遂げたいわけですが、君吾は一体何を成し遂げたいのか?と考えた時に、目的が思いつかないのです。謝憐をもう一人の白無相にして、世界を破滅させることなのか?・・・違うと思います。やろうと思えば君吾はこの二千年の間にいつでもできたのです。

 
もしかしたら深い部分では、君吾は謝憐に救いを求め、謝憐が君吾を救ったのではないか、と最近思うのです。この考察に行き着いた時、ついに君吾の謝憐に対する矛盾した接し方、君吾の目的などに、うまく説明がつくように感じました。

 

君吾に秘められた思い

謝憐の「身在無間、心在桃源」の一言が君吾の逆鱗に触れた、とされていますが、もしかしたら君吾にとって二千年あまりの中で、謝憐が唯一、一筋の希望の光だったのではないかと思います。謝憐に「万人は救うに値しない」ということを分からせる為に、次々と試練を与え、一見自分と同じように闇堕ちさせたいように見えますが、でも心のどこかでは、謝憐に初心を忘れないで希望の光であり続けてほしいとも思っていたように思うのです。
 
なぜか。
 
それは君吾にとって、失望しきったこの世にはまだ善意が確かにある、ということの証明になるからです。君吾が、当時太子だった頃の自分が、国に災いが起こることを知っても民を見捨てずに、たった一人、満身創痍になりながら奮闘したことが、決して間違ってはいなかった、例えそれが功を奏さなくて国が滅びたとしても、それでも自分の初心は間違っていなかったと、自分自身を肯定してあげたいのではないかと思うのです。
 
千年、二千年単位の、理解者もいない、自己肯定もできない、そんな長い年月の苦しみは計り知れないものです。二千年近く、鬼をしたり、神をしたり。唯一素直に、世の中に対する憤りや怒りなどの気持ちを吐露できるのが、白無相として謝憐と会話する時だけだったと思うのです。同じような経験をした謝憐だからこそ、この気持ちを理解してもらえるはず、という期待も込められていたに違いありません。
 
もしかしたら、君吾は心の奥のどこかに、(彼自身も忘れかけているぐらい奥の方に)二千年前の太子だった頃の気持ちを、持ち続けていると思うのです。彼も元々は「万人を救いたい」という志から始まったのだから。
 
君吾がもし本当に真っ黒なら、神武大帝なんかにはならずに、力を持った瞬間に、まずこの世界を滅ぼすはずなのですが、実際はそうはしていません。二千年近く神武大帝として、きちんと天界を治めているのです。三界を大きく乱すようなことも、(謝憐に試練を与えるために)仙楽国を滅ぼした以外は、大きな殺戮もしていないのです。同じような経験を持ち、自己投影できる謝憐に出会っていなければ、彼は白無相になって仙楽国を滅ぼさずに、ずっと静かに天界を見守っていたかもしれません。
 

謝憐に対する思い

物語の端々から、君吾は謝憐のことを非常に可愛がっていることが分かります。何度試練を与えても、謝憐は彼が期待するのと違う答えを選びますが、それでもまた何度でも新しい試練を与え続けます。普通、何度か試して自分の期待通りにならなかったら、他の標的を探します。けれど、彼はそうしません。ある意味、寛容すぎるぐらい、謝憐には寛容なのです。そして、それはまさに父親が我が子に対するような可愛がり方なのです。それは、謝憐に当時の自分を投影しているからです。
 
君吾が謝憐に自分の大事な剣をあげたのも、可愛がっていることを裏付けています。当初は数多くあるコレクションの剣のうちの一つを気まぐれにあげたと思っていましたが、実は彼があげたのは、自分が太子の時から常に持っていた大事な剣、心を通い合わせた唯一の大事な剣なのです。それを花城が謝憐に骨灰をあげるように、いとも簡単に謝憐にあげています。
 
君吾は自分の分身とも言える剣を、謝憐に引き継がせました。同じ世界で、同じような経験をしてきた人に、分身である剣を渡して、自分と同じような状況に追い込み、彼がどう選択するのかを観察しているのです。でも彼は、決して自分と同じ選択をしない。どうしてだ。どうしてここまでされても、守りたいものに裏切られても、お前は初心を忘れずにいられるんだ。どうしてあんな守るべき価値もない人間達を恨んだり、反撃しないんだ。ときっと疑問に思ったに違いありません。
 
謝憐が思い通りにならないからこそ、君吾は謝憐に飽くなき興味を駆り立てられるのです。もし、謝憐が白無相にそそのかされた時に、そのまま次の白無相になっていたなら、君吾は早い段階で謝憐への興味を失ったかもしれません。自分と同じように闇堕ちさせたいのに、謝憐がなかなか思う通りにいかないだけなら、憎いだけで可愛がることはないのです。謝憐に分身である剣を引き継がせたのは、自分を謝憐に投影して、もう一度やり直したいという気持ちもあったのかもしれません。
 
ちなみに、君吾はその剣を「诛心」と名づけています。「诛」には’’滅ぼす’’と言う意味があります。謝憐の手に渡ると、謝憐はそれを’’芳心’’と名づけました。「芳心」とは、人が示してくれた親切な心を敬って言う言葉です。同じ世界で、同じようなことを経験した人が付けた名前なのに、意味は正反対なのです。もしかしたら人生、幸せか不幸かは、良い面に意識を向けられるかどうかが分かれ道なのかもしれません。謝憐は絶望の中でも、僅かながらの善意をしっかり掴み、それに意識を向けたことで「芳心」と名付けることができたのです。
 

梅念卿から見た君吾

謝憐の師匠である「梅念卿」の“梅”は“没”と同音で、「〜ない」という否定の意味、“念”は「忘れられない、懐かしむ」という意味、“卿”は相手を敬って呼ぶ呼び方なのです。合わせて読むと、“そなたのことなんて思っていない”という意味になります。そんな名前にするなんて、ここで言う“そなた”とは誰なのか?それは、もちろん烏庸太子(君吾)です。''乌庸国''の''乌''は烏合の衆(秩序のない役に立たない集まり)、''庸''は庸人(凡庸な人)から取られたものと思われます。梅念卿は、かつては君吾が太子だった頃の騎士の一人でした。
 
彼の目から見た君吾は、きっとずっとあの頃のままの太子殿下なのです。成し遂げたいことがあればそれが何であれ、完璧にできる。人間の時は太子殿下で、神になれば神武大帝になって天界を治め、鬼になれば白無相として「絶」等級の鬼になる。彼は誰も比べられないくらい、強くて、完璧で、計画的で、聡明で、一流なのです。昔と同じように。
君吾として君臨する時に、当時の神官達を一度皆殺しにして、天界を塗り替えるなんて、どれだけの苦労をして修行したのだろうか。どれだけの傷を受けてきたら、刺されても痛みを感じないようになったんだろうか。梅念卿はきっと君吾のことを思うと、とても胸を痛めたに違いありません。
 
''そなたのことなんて思っていない''という強がりな名前をつけた裏には、きっと彼の心の中には、この二千年の間ずっと、抑えても抑えても溢れ出てくる、烏庸太子への心配や気にかけがあったに違いないと思うのです。(梅念卿を謝憐の母代わり、君吾を謝憐の父代わりという言い方もあります。また一部では、梅念卿と君吾をカップルに見立てる見方もあります。)
 

一番良い結末

君吾にとって、一番良い結末は、謝憐を打ち負かすことではないのです。謝憐がかつて白無相に殺してやると言った時に、白無相は「大歓迎だ。殺しに来るのを待ってる。いつか本当に殺せた時こそが卒業だ。」みたいなことを言っています。君吾は、自らが障壁となり、謝憐に自らを倒してもらって、自分の屍を踏んで乗り越えてもらうことで、謝憐に投影したかつての自分が正しかったことを証明したいのです。
 
謝憐に打ち負かされた時、長い年月心の中にあった君吾のわだかまりは、やっと解くことができたのです。君吾はきっと長年の恨みも、不安も消え去り、久しぶりに安らかな気持ちになったに違いありません。君吾は謝憐に負けて、心から嬉しいのです。謝憐が正しかった。つまり、かつての自分も正しかった。やっと過去の自分を肯定できるのです。
 

笠の意味

謝憐の笠は、謝憐が一番絶望している時に、道行く人がかけてくれた''善意''でした。その善意は謝憐を、闇堕ちのすぐそばから救い出してくれたのです。謝憐が道で倒れていて、雨に打たれている時に掛けてもらった笠を、君吾が打ち負かされて倒れて、雨に打たれている時に、謝憐が掛けてあげます。道行く人が謝憐を救ったように、謝憐もまた同様にして、君吾の希望の光となり、君吾を救ったのです。

 

君吾の謝憐への執着の深さは、かつての自分をそれだけ肯定したいことを表しています。かつての自分をそれだけ肯定したいのは、彼も本当は万人を愛したいという、矛盾した切ない気持ちの表れだと思うのです。彼は、万人に対して愛を持っていたのに、裏切られてそれが恨みに変わり、滅ぼしてやりたい、けれども心のどこかでは守りたい、そんな矛盾した感情を持っていたのです。
 
ある日出会った境遇が似ている謝憐に、過去の自分を投影して試練を与え続け、謝憐が初心を守り抜いたことで、結果的に彼は謝憐によって救われたのです。
 
 
 
どうでしょうか?少し深読みしすぎでしょうか。
でもこの考え方なら、君吾や白無相の言葉、君吾の謝憐に対する矛盾した態度などが、全て腑に落ちるる気がするのです。この考え方を当てはめて君吾を見ると、また違った感じ方ができます。
 
個人的には多分、謝憐より君吾の方が感情移入しやすいのです。人は、大きな裏切りや絶望、挫折に直面した時、謝憐のようにそれでも聖人でいられる人なんて、どれほどいるのでしょうか。謝憐はある意味、人間らしくない極限まで“聖人化”されているように思うのです。少なくとも自分が万人に刺されて、踏みつけられて、罵られたら、もう万人なんてどうでもいい、と思うと思います。滅ぼしたい、とまで思うかどうかは分かりませんが、少なくともそれでも守りたい、とは到底思えません。
 
だからって君吾を正当化するつもりはありません。悪いことも沢山しているのは確かですし。ただ天官賜福の中のキャラクターとしては、とても好きなのです。キャラクターの中で君吾は特に心情が複雑で、それがかえって彼を生き生きとさせていると思うのです。彼の心情の複雑さが物語全体を貫いた軸となっていて、物語により深みと、色彩と、豊かさを与えています。
 
一旦、現時点で君吾に関して思うことを書いてみましたが、まだ自分の中では未完成です。まだまだ見落としている部分、深掘りできる部分がたくさんある気がするのです。天官賜福は本当に繰り返し読んで考察したくなります。時間が経ったり、経験することが変わると、考察や見解も変わっていくのが本当に楽しいです。
 
もしかしたら何かの作品を観る(読む)ことは、その作品の中の登場人物や経験を通して、自分の知らない自分を探りたいのかもしれません。そして、時間を置いて同じ作品を観る(読む)と、感じ方や見解が変わることで、自分の成長や変遷も分かる気がします。