謝憐と君吾の違いについて書きたいと思います。ネタバレを含むのでご注意ください。

謝憐には花城がいたから君吾のようにはならなかった、もしくは謝憐には笠をかけてくれる人がいたから君吾にはならなかった、と思う人も多いと思います。

 

君吾の記事を書いたとき、私もそう思っていたし、そう書きました。しかし、改めてよく考えると、二人の違いはそれだけではないのです。

まず謝憐について見ていきます。

謝憐はかつては高貴な太子殿下で、周りから愛されて大事にされて成長しました。その中で、''万人を救いたい''との志を持ちます。

 

その志を遂行するために、神官になったにも関わらず、滅びかけた自国の民を救うために奮闘しますが、結局どうすることもできず国は滅び、最終的には万人から失望され、忌み嫌われ、攻撃される対象となります。

 

あまりの辛さに謝憐が闇堕ちしそうになった時、笠をかけてくれる人がいたことで、自分自身を取り戻し、初心を忘れることなく歩み出す事ができます。

 

謝憐は君吾と経験したこと自体は似ていますが、最終的な結果は正反対のものとなりました。二人の決定的な違いは、花城ではなく、笠をかけてくれた人でもなく、謝憐には師匠である仙楽国の国師''梅念卿''がいたことだと思うのです。

 

二千年前、烏庸国の太子(若い時の君吾)には四人の騎士がいました。しかし、誰も君吾や謝憐と同じような経験をしたことがないゆえに、若い時の君吾に対して善良さを教えたり、道を踏み外しそうになった時にすぐに正してあげることができなかったのです。

 

そして君吾が実際に間違った道を歩み始めた時も、誰も彼を止めることができませんでした。そうして君吾は破滅の道に突き進んでいきます。

 

梅念卿はかつて謝憐に次のようなことを言っています。「“人は上に行けば神になり、下に行けば鬼になる“と言われているが、それは大きな間違いで、“人はどこまで上に行っても人だし、どこまで下に行っても人でしかない”」

 

この時の謝憐は、この言葉の意味を咀嚼できませんでした。しかし、後の謝憐の行動はしっかりそれを体現しているのです。本編の中でもサラッと書かれている言葉なので、あまり深く考えたことがなかった人も多いかもしれません。ここで今一度考えてみたいと思います。

 

謝憐を表現する言葉として’’花冠武神’’は「世界を破滅させる力を持ちながら、花を惜しむ心を忘れない」ことを表しています。謝憐は太子であっても、神官になっても、放浪している時でも、“人”としての気持ちを忘れず、慈悲の心を持ち続けていました。

 

一方で君吾は、神官になった瞬間、民と自分を線引きします。民を上から俯瞰して、自分は’’神’’の視点で民を見るようになります。そのため君吾は、民の暴動を理解しようとせず、’’民は愚かで救うに値しない存在’’だと思うようになり、民の命を何とも思わなくなります。そこが君吾と謝憐の大きな違いと言えます。

 

そのため、花城ではなく、笠をかけた人でもなく、実は師匠である梅念卿の存在が、謝憐の選択を大きく変えたのです。梅念卿は君吾の経験したことも、成れの果ても見ているから、そうならないように謝憐を指導する事ができたのです。

 

どうして花城ではないのか?それは、花城は決して謝憐の選択を左右しないからです。謝憐が決めた事であるなら、たとえそれが世界を救うことでも、滅ぼすことでも、花城はきっと謝憐の味方でいるのです。

 

また、笠をかけてくれる人に出会ったのも、謝憐が人々の中の''善意''を信じて、待った結果、出会えたのです。もし謝憐が''人''の気持ちを持っていなければ、きっと笠をかけてくれる人にも出会わなかったはずです。

 

そのため、謝憐が初心を忘れず、善良な選択をし続ける事ができたのは、師匠である梅念卿の指導のおかげなのです。

 

 

余談ですが、天官賜福の神官は、皆とても人間らしいと思いませんか?

 

他の作品とかでは割と「神」は神聖で、良い意味で人間らしくないことが多いのですが、天官賜福では神官達は人間味に溢れています。権力や名声になびいたり、人を軽蔑したり、見下したり、噂話をしたり、誰かに嫉妬したり、功徳を撒いたり、野心があったり、自分の家族のためなら他人の命を犠牲にしたり、誰かが失脚すると遠ざかったり。

 

それは梅念卿の言葉“人はどこまで行っても人でしかない“をよく表していると思いませんか?

 

・・・もう深すぎて天官賜福の沼から抜け出せません。(作者はどんな人生遍歴をしたらこんなに深い物語が書けるんだろうと、いつも感嘆しかありません。)

 

 

以下、もっと余談です。

もしかしたら私も花城が『離思』の詩を好きなような気持ちで、この作品のことが好きなのかもしれません。昔に読んだ高橋歩さんの言葉で、ずっと覚えているものがあります。

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たくさん食べることはない。一匹の魚を骨まで味わってごらん。そのほうが、本当の「おいしさ」がわかるから。
たくさん読む必要はない。一冊の本を文字が溶けるまで味わってごらん。そのほうが、本当の「おもしろさ」がわかるから。
たくさん愛する必要はない。ひとりの人を心ゆくまで愛してごらん。そのほうが、本当の「愛」がわかるから。
貧しい国の豊かな人々が、オレに、そう笑いかけている。

『貧しい国の人々』

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実は、これまで特に小説は、一度読んでしまうと二度目を読むことはほとんどありませんでした。内容も、展開も、結末も知ると、それをまた読むモチベーションがなかなか湧かなかったのです。

 

もしかしたら若い頃は、日々成長をしなければと、新しいものに飛びつき、毎日生き急いでいたのかもしれません。少しずつ年を重ねることで、目の前のことをじっくり味わう気持ちの余裕が出てきたのかもしれないし、今の一分一秒、そのものが人生の’’旅’’だと気が付いたのかもしれません。天官賜福は、たくさんの作品をサラッと読むよりも、一つの気に入った作品を何度も何度も読むことの素晴らしさを教えてくれました。

 

天官賜福は、何度も読んで、吟味して、考察して、その中から教訓を沢山得ることができる“バイブル”だと思うのです。考察記事を書いた後、こうして短期間で見解が変わることもあるように、読む度に新しい発見があるし、自分のライフステージが変わる度に読んでも、きっと教訓を得ることができる気がします。是非、一度だけでなく何度も読んでほしいし、いろんな考察記事を参考にしながら、時には納得したり、時には違う見解を見出したりしてほしいです。

 

余談が長くなりました。