殿下への熱い思いを心に秘めたまま犠牲になってしまった黒武者''無名''が、時を超えて殿下と心を通わせます。''無名''の死を悼む全ての人に届きますように。(ネタバレを含むので、最後まで読んでいない方はご注意ください。)

 

謝憐の代わりに全ての呪いを一身に受けて消えてしまった''無名''という黒武者の少年。自分のせいで死なせてしまったと、謝憐はその後八百年間にわたって罪悪感を引きずりながら放浪しました。謝憐と花城の日常生活の中から、時を超えて殿下と''無名''が心を通わせる部分をご紹介したいと思います。

 

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謝憐は長い道の先に、黒い服を来た武者の姿を見つけます。黒武者は、顔に笑顔の仮面をつけていて、手には黒い剣を持ち、こちらを向いていました。空中には、何千何万の怨霊が集まっていて、黒武者に向かって襲い掛かります。黒武者はそれには構わず、ただただ謝憐を見つめていました。そして、手を上げて黒い剣を空に向かって伸ばしたかと思うと、次の瞬間、怨霊の黒い雲は彼を跡形もなく呑み込むのでした。

 

「やめろ!!」

謝憐は叫びながら起き上がると、怨霊は見当たらず、黒武者もおらず、あたりを見渡します。「哥哥?」声がする方に振り向くと、花城の美しい顔が目に入りました。花城は謝憐の額にかいた汗を軽く拭いながら尋ねました。「どうしたの?悪い夢でも見た?」謝憐は何も言わずにずっと花城を見つめています。「哥哥?」謝憐は突然花城を抱きしめました。

 

「さっき...三郎の夢を見たんだ。怨霊の呪いに呑み込まれて...」それを聞いて花城は、どうして謝憐がこんな反応をするのかが理解できました。謝憐を抱きしめて、黒い髪を撫でながら言います。「もう大丈夫。全部過ぎたことだから。」しばらくして、謝憐は花城の胸から頭を上げ、花城の右目がない顔を見ながら、指で軽く右目の辺りを触りました。「あの頃は、右目がまだあったんだよね?」「うん」謝憐の目には涙が滲んできます。「無名の姿を見てもいい?」花城は謝憐の手の甲に口付けしながら答えました。「もちろん。」

 

次の瞬間、目の前の男性は少年の姿に変わりました。記憶の中と同じ、全身黒い服を着て、白い笑顔の仮面を付けた武者の姿でした。心づもりをしていたものの、黒武者にもう一度会えたことで、謝憐はしばらく恍惚としました。「殿下。」少年は敬意のこもった声で、呼びます。謝憐はその呼び方に呆然としました。以前はその「殿下」に込められた意味を一度も考えたことがなかったのです。今考えると目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちそうでした。そして少年の顔には右目がありました。右目の瞳は赤く、左目の瞳は黒いのです。

 

普段、花城は本当の姿でいることが多いので、右目をいつも隠しています。少年の姿に化ける時は両目とも黒い瞳なので、謝憐は初めて二つの瞳の色が違う姿を見て、少し驚きました。・・これが花城が死んだ時の姿なんだ。

 

花城が小さい頃、戚容に袋叩きにされ、そのあと馬で街中を引きずられて重症を負ったことを思い出しました。その時どう説得しても、顔を隠している包帯を取りたがらなくて、その時に彼が言った理由が「醜いから」だったのです。小さい子供が自分の外見に対してここまで敏感に思うということは、この赤い瞳が彼にどれだけの誹謗中傷をもたらしてきたのか、どれだけの苦痛をもたらしたのか、容易に想像がつきます。それに思い至った時、謝憐は心が痛むのでした。

 

「殿下、どう?」花城は無名の姿になってからは、いつものふざけた笑顔も控え、話し方も、態度も当時と同じ、敬虔な信徒になりました。「いいね。」謝憐は花城の顔に手を当て、異色の瞳を見つめながら言います。「美しいよ。」無名は笑いました。仮面に描いている笑顔ではなく、無名の本当の笑顔でした。

 

謝憐は込み上げるものを抑えながら話し始めました。「あの時、ずっと花を供えてくれてたよね。」無名は謝憐の手を握りながら答えます。「永遠に一番忠実な信徒だから。」何度聞いても、謝憐はこの言葉に動揺します。「・・最後は、剣と花を残して消えた」

謝憐はこの八百年、ずっとこの一幕を忘れられないのです。他の記憶は時間と共に薄れるのですが、この一幕だけは時折彼を夢から目覚めさせ、そこから彼は後悔に苛まれるのです。

 

「殿下はその剣を’’芳心’’と名付けたね」「うん。名前をつける時、供えてくれた花を思い出したんだ。’’芳心’’という二文字は、その時頭に浮かんだ。」無名の手を握りながら続けます。「君のおかげでこの剣は''芳心''になったんだ」「・・違うよ、殿下。殿下が自分の身体に刺した瞬間に、それは''芳心''になったんだ。’’诛心’’ではなく。」「・・・三郎」

 

無名は両手で謝憐の顔を持ち上げ、軽く額に口付けしながら言いました。「殿下はそういう人なんだ。僕がついていきたいのは、そんな殿下なんだ。」二人は額を付けながら、お互いを見つめます。「そういえば、永安国で国師をした時もこの名前だったね。」「永安に戻った時に、自然に君を思い出したんだ。」

 

無名の手を握り、続けます。「君が消えた場所にも行ったんだ。けれど、そこにはもう何もなかった。かつてそこで大きな災禍が起ころうとして、一人の鬼がそこで消えたなんて、誰も覚えていない。」「・・でも、殿下は覚えている」無名は笑いながら、謝憐の手を強く握って言いました。「殿下が覚えているだけで十分だ。」「’’芳心’’と誰かが呼ぶ度に、君を思い出した。自分の過ちを思い出し、忘れてはいけない人がいると思い出させてくれた。」「殿下・・」

 

何か言おうとする無名に、謝憐は自分の指を無名の唇に当てて、その後、無名の右手を持ち上げました。謝憐はその右手を宝物のようにしばらくさすりながら口を開きます。「とても後悔している。永安の皇宮で起きたことは、君にさせるべきではなかった。あの人達も死ぬべきではなかった。」無名は少し目を見開きました。

 

謝憐は郎英の死体の最後の姿や、永安の護衛達が次々に死んでいくのを思い出しました。無名はついにこらえることができず、口を開きます。「殿下。・・殿下こっちを見て」「殿下、僕のためにそんな辛い思いをする必要ないよ。もう過ぎたことだ。自分を責めないで。八百年も経つんだ。十分だ」・・神がしたことを誰が責めるだろうか。

 

「殿下。もう十分だ...」「・・三郎?」様子が変なことに気がついて、謝憐は無名を抱きしめながら背中をさすります。「どうしたの?」無名は、少し沈黙して口を開きました。「殿下、いつも人のことを考えるのではなく、殿下自身のことも考えてほしい」「・・わかった」謝憐は先ほど様子が変わった原因がわかった気がしました。謝憐の負った傷も、痛みも、涙も、彼は謝憐自身よりも覚えていて気にしているのです。何も言葉が出なくなりました。少年の肩に顔をうずめながら、いつもより少し薄い背中に腕を回して、少年の黒い髪を一束手に取って触っているうちに、徐々に心が少し埋まる気がしました。

 

「三郎が無名だったなんて。」無名は軽く笑いながら強く抱きしめ返します。「よく考えたらそうだよね。あそこまでできるのは、君しかいない。」無名は謝憐を離し、しばらく見つめたあと、口付けしました。謝憐も目を閉じて無名を感じます。「僕も、殿下とこうなるなんて、思ってもみなかった。」

 

八百年前の無名は、こんなことはおろか、謝憐に触ることさえ、畏れ多くてできなかったのです。熱い思いを心に秘め、伝えることもできないまま、神の武器となってしまい、最後には犠牲になりました。今になって黒武者のことを思い出すと、謝憐は後悔に苛まれました。あの時、あの少年のことをどうしてもっとよく見なかったんだろう・・。

 

「名前を尋ねた時、’’名前はない’’と言ったのは、君が誰なのかを、教えたくなかったからだよね?」「・・うん」今となっては花城はもう隠す必要はありません。謝憐は続けます。「戦死した魂を助けた時、守っている相手が負担に思わないように、相手に知られないようにすると約束したから?」「うん」

 

・・誰かのために、安らかな眠りにつくことをせず、相手がそのことを知って思い悩まないように、何も伝えず、ただそばにいて守る・・。どれだけ深くて、どれだけ真摯な愛なのか...。謝憐はそれに思い至ると心が痛むのでした。「その時、信じないって言ってしまった」自分にまだ信徒がいることも、その信徒が永遠に離れないことも。

 

「今は?」「今は信じている。どこを探しても、君ほど誠意のある人はいない。」謝憐が笑うと、花城も笑いました。「あの時は怖い顔ばかりしていたね。申し訳ない。」「謝ることなんてないよ。僕の前で自分を責めたりしたら怒るよ。」

 

「そういえば、三郎、私の前で一度すごく怒ったことがあったよね」「そうだね」「毒がついてる骸骨を触った時と、その前に半月関で蛇に噛まれた時だよね?」「うん」「あの時は顔色まで変わって、何も話しかけてくれなくて、すごく緊張したよ。」「自分に怒ってたんだ。そばにいるのに、ちゃんと守れなくて怪我をさせた。」

 

謝憐にとって八百年、無名のことを忘れることができなかったように、花城にとっても過去経験した苦難は壮絶すぎて忘れられなかったのです。自分の大事な人が、自分の目の前で傷つけられ、それに対して自分は何もできない、そんな悔しさは花城にとって大きな心の傷になっていたのです。「あれは君のせいじゃない。自分の不注意だ。」謝憐は花城の顔をさすりながら言いました。「もうこれからそんなことは起きない。約束する。信じて、三郎。」

 

「あの時もだったね。戚容のところに行った時。すごく怖い目をしてた。」「驚かしてしまったね。」謝憐は少し考えて言いました。「驚いたというより、心配したよ。」花城は目を見開きます。「初めてそんな三郎を見たから、怒りすぎて体調が悪くならないか、心配したんだ。」花城はしばらく謝憐を見つめて言いました。「その時、背中をさすってくれたよね。」謝憐は恥ずかしがりながら答えます。「それは...小さい頃、両親がよくしてくれたんだ。」「あれはいい。気に入った。・・もう長らく誰もそうやって慰めてくれたことがないんだ。」謝憐はその言葉を聞くと、花城は小さい頃からあまり幸せな環境でなかったことを思い出し、また心を痛めます。「これから嫌なことがあったら私がそうやって慰めるよ」「いいね」

 

花城は笑いながら続けました。「あの時、哥哥も怒ったよね。」謝憐はもちろん覚えています。戚容は最初は謝憐の悪口を言っていたのが、後半は花城の悪口を言い出して、それで怒って殴ったのです。当時は深く考えませんでしたが、今考えると八百年間の中で唯一我慢ができなかったのです。それだけ、他の人が花城を悪く言うことが耐えられなかったのです。今考えると、その頃から花城は特別な存在になっていました。

 

「・・戚容が悪いんだ。」謝憐は言いました。「哥哥の悪口を言う時は、哥哥は僕に落ち着いてとなだめていたのに、僕の悪口を言ったら手を出したよね。僕のためだよね。」謝憐は少し恥ずかしくなりました。「嬉しいよ。初めて戚容に手を出したんだよね。僕のために。」「もちろん。私にとって特別だからだ。」そんな会話をしながら、二人でお互いが怒ったことを数え始めました。花城が怒った時は、どれも謝憐が関係しているのです。

 

誰かを愛するということは、全ての痛みも、全ての喜びも相手に起因するようになるのです。花城は口を開きました。「今、すごく幸せなんだ。」「それは良かった。」「欲しいものは手に入ったんだ、殿下。」その言葉を聞いて、謝憐はかつて自分が無名に約束したことを思い出しました。’’自分についてきた暁には、欲しいものを手に入れさせてあげる’’と。

 

花城が欲しいものは、最初から最後まで一貫して、謝憐のそばにいること、謝憐に幸せになってもらうことなのです。

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人間として戦死した後の花城の魂を謝憐が助けて逃がそうとした時に、’’この世にまだ愛する人がいるからどこにも行けない’’と言いました。謝憐は’’相手がそれを知ったら、きっと思い悩むよ’’と答えます。そしたら花城は、’’相手に知られないように守る''と返したのです。

 

謝憐が黒武者に名前を聞いた時に答えなかったのは、かつて謝憐と交わしたそんな会話を守っていたからなんですね。もしかしたら八百年後再会してからも、自分から自分が誰なのかを言わなかったのは、それを守っていたからかもしれません。

 

謝憐が鬼市に初めて行った時の極楽坊への案内人、下弦月使も笑顔の仮面を付けていました。笑顔の仮面は、この黒武者の仮面から来ているのです。

 

殿下への思いを秘めたまま消え去った''無名''の無念が、個人的にはこの回で結構埋まりました。今回は二次創作の作品『你的愿望』の中から抜粋してまとめ直しました。