佐渡のもっくん
送られてきた写メが
これ!
三ツ矢サイダーやHI-C
懐かしい〜
買い取った家の蔵にあった食器をお風呂場で洗ったとか
“古い蔵からお宝出てきた。皿はもう買う必要がない〝と
どうやら、購入したお家がかなものやさんだったとか。
また、佐渡には、遊郭があったそうで、そのあたりの方も買いに来たので、良い食器もあるのではと。
気になるので調べてみたら
佐渡人名録によると
両津の遊郭について書いてありました。
幕末から明治にかけて、女郎屋は夷町に五軒、湊町に二軒あり、女郎は五、六十人であった。しかも、これは一廓をなさず、一般商家の中に散在していたのを、明治四年営業許可されたものである。しかし、それだけでは、出入船舶の増加にともなって、船乗りたちや旅客などの要望を満たすことができないので、町の所々に「ねこ屋」と呼ばれるもぐり売春宿が出来、俗に「ねこ」と呼ぶ私娼が多くなった。これらの商売女は、公娼も私娼も、公的には年季奉公ということになっているが、実際は一種の人身売買で、「前借金」があるために、一且その商売に従事すれば容易に自由の身となることはできなかった。
その頃の夷湊の公娼の実態はどうであったかというと、いわゆる「揚げ代」は、明治時代には、実収入の七分を抱主がとり、娼妓は三分を貰うことになっていた。しかし、その中からさらに、種々の名目で控除されるので、反対に借金は増加して行くばかり、したがって、最初の前借金は容易に皆済できなかった。大正時代には収入の配分が楼主六分娼妓四分となり、昭和に入っては五分五分となって、幾らか優遇されるようになったが、依然、籠の鳥の生活はみじめなものであった。と
佐渡に遊郭があったなんて。知らなかったです。
その次に送られてきて写真がこれ
おお、買ったささみ包丁で、とうとう挑戦したのかと思ったら
なんと! 『生協で350円
刺身は柵でも売ってるからこんど切る』と
いつ使うんだーい!!