名探偵コナンくんが
「真実はひとつ!」と名言を放ちます。
たしかに
真実は、
ひとつなのだと思うのだけど
その真実は、
その真実を知るために起こった出来事の上側では
まだ見えなくて
色んな人の推測
正しい・正しくない
それはいけないことだ
などなど…
様々なジャッジの
奥にあるものを
見つめていって(解明していくと)
見えてくるものなのかもしれないと…
ジャッジがダメとか
よく聞くけど
本当にそうなのかしらん?
結果、みんなジャッジして選択してると思うんだけど、な。
(“それは、そー言うことではない!”とか言われそうw)
それで、
どんなジャッジでも
その上側の出来事を
深く、奥を見ていくと
どんな見方(ジャッジ)であっても
その真実は同じところに(一つのところ)に
たどり着くように感じます。
そして、
そんな上側の表層のところで
人々はよく揉めてるんだなぁって…
思ったりもします。
私は長いこと
習い事をしてました。
20年以上習ってた
お花やお茶。
お道具から入っても
形から入っても
動作から入っても
長いこと習ってると
その動作一つに込められた
意味とか深さを感じる瞬間が
必ずあります。
そこを感じるまでに
時間がかかりますが…
そんなことに関心を持つ自分だからなのかしら?
こんなこと、
別に考えなくてもいいことなのかもしれないけれど
(暇なんだな…と思ったりします)
その奥の深いところを
掘り出していこうとしないと
真実なぞ、見つかんないんだなぁと思うんです。
もしくは、
長い年月の間に、色んな経験から
見出したり、実感するのだなぁ…と。
日常からの様々な感情を受けとめながら
「この真実は何だろう?」と問いかけておくと
“あ、ちょっと見誤ってたかも”とか
“思ったまんまで良かったんだ”とか
自身の背中を押す気づきに出会って…
深いところにある
真実の恩恵のようなものから
自分に“奥行き(スペース)”が造られて
なんていうか…
ひとを魅了するような
その人にしか出せない深みを
得ていくのかもしれないなぁ
なんて思っています。
それは、
いつも自分の奥深くに繋がっていて…
ニーチェの
汝の足下深く掘れ
そこに泉湧く
という言葉を思い出しちゃう…
なので、
(なので?)
今日は温泉に入りたいなぁって思ってます
(何やねんそれオチのつもりか?…正解!!いつもウケなくてすいませーん!!ナハナハ…しかも古いし)
十五夜の夕空 美しい空
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