2011年3月地震後の搭乗記録 | 飛行機に乗って

飛行機に乗って

飛行機が好きです。
機種とかよりも航空会社やエアライングッズ、空港が好きです。
旅先で乗った飛行機や、使った航空会社、集めているエアライングッズについて、報告します。
行先は東欧・北欧と偏りがあるので、あしからず。
利用する航空会社は主にスカイチームです。

2011年3月、大地震の数日後、

成田エクスプレスの運休や、ガソリン不足によるリムジンバスの間引き、

出発地や出発時刻を変更する航空会社などが続出したことで、

参加を予定していた学会のための

3月23日発のFinnair Narita-Helsinki-Riga

ラトビア行きに暗雲が立ち込めていた。


飛行機は飛ぶのか。

またそもそも空港にたどり着けるだろうか。

それ以前に、

計画停電でパソコンが使えなくて、資料が準備しきれなかったら?

といった個人的心配はもちろん、

さらに大きな余震が東京で起きたら?

原発事故の影響の身体への影響は?

など、結構根本的な問題が、この時期どんな人にもあったと思う。



出発の1週間前からFinnairのHPを毎日チェックし、運行状況を確認。

この頃は、関東地方の燃料供給不足で、

ヨーロッパ行きの多くの便は、関西や名古屋、ソウル、北京、ハバロフスクで

給油をしていた。

どの便も欠航はそれほどなかったようだが。


成田空港までの道のりが険しいと思ったので、

前日夜から空港近くのホテルに一泊をすることにした。


出発前夜も余震が数回あり(千葉だったこともあり)、

翌日朝の出発に支障がでないことをただただ祈るばかりだった。


この時期はすでに出国ラッシュのピークは過ぎていたため、

便はそれほど混んでいなかった。



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Finnairはこの時期、Narita-Helsinkiを名古屋経由で運行。

搭乗券にはVia Nagoyaとは書いていなかった記憶があるが、

空港の出発案内にはしっかり経由地が書いてあった。



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フィンランド人乗務員は、福島に近い成田でのステイを回避していたと思われ、

日本人乗務員はそのままで、名古屋でフィンランド人乗務員が降りて、

新しいフィンランド人乗務員が「こんにちは」と言って乗り込んできた。

機内の説明では、「地震の影響で、名古屋空港で給油と乗務員の交代」とあったが。

成田・名古屋間では、搭乗時にミネラルウォーターのボトルが手渡しされ、

その他のサービスはなし。

このミネラルウォーターは通常、座席ポケットに元から用意されているが、

成田・名古屋間の唯一のサービス、としての計らいだったのかもしれない。



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名古屋では機内には出ず、ひたすら給油が終わるのを待つ状態。

1時間後Helsinkiへ出発。


2度目の離陸。

安全上の注意のアナウンスはもうなし。

名古屋で給油をした関係で、

昼食のサービス開始が1時間遅れ、結構おなかがすいた。


最も重要なことは、名古屋経由だったことが乗り継ぎ便にも影響したこと。

ご存知のように、Helsinkiは日本人にとっては超高速の接続で人気だが、

そのおかげで、1時間の遅れで乗り継げなくなる都市が多い。


HelsinkiからRigaへ乗り継ぐ時間は1時間少しであったため、

すでに成田のチェックインカウンターで振替便の手配がなされる。

手配されたのは、本来のFinnair便よりも3時間ほど遅くHelsinkiを出発するairbaltic機であった。

よってRigaに到着したのは、予定よりも3,4時間ほど遅かった。


地震で疲れているのに、名古屋での機内での待ち時間とHelsinkiでの待ち時間で

かなり疲れていたのを覚えている。



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同日接続できただけでマシだったが、

airbalticなので、ドリンクサービスが有料、

またこういう振替便の場合Finnairにもairbalticにもマイルがたまらなかった。

日本発のFinnairは、機内に乗る乗り継ぎ客に、

乗り継ぎ便の案内を通常、着陸直前、着陸後ゲートに到着する前に

座席モニターに表示してくれるが、

多くの乗り継ぎ客が、予定していた乗り継ぎ便に接続できないため、

日本人乗務員が口頭でも案内していた。


また二か所を経由して乗り継ぎをしなければいけない場合は、

「Vilnius行きのお客様は、ヨーロッパの他の都市を経由していただきます」

と説明していた。

Vilnius行きの人達は、HelsinkiからairbalticでRigaへ、さらにRigaからairbalticで

Vilniusと飛んで行った。

この人達は、名古屋、Helsinki、Rigaと3回も経由したので、相当疲れただろう。


ちなみにWarshaw行きの人は、翌日の便となっていた。


それでも、なるべく同日着を目指し、他の航空会社に振り替える方が、

翌日着で、Helsinkiでの宿泊代負担よりも、航空会社にとってはよいのだろう。

もちろんお客にとっても。



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乗り継ぎ時間のHelsinkiの喫茶店では

地震酔いのせいで、テーブルが不安定なのがかなり気になったし、

書店の新聞や雑誌には、日本関係の写真が一面で載っていて、

改めて世界が注目するほどの災害だったことを確認させられる。



帰りは一泊Helsinkiにステイ。



翌日の東京行では、長距離線には珍しくタラップからの搭乗。

東京発は新塗装であったが、東京行は旧塗装。



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また雪よけか何かの液体をかけていたので、出発が少し遅れた。

が、成田到着は予定時刻きっかりだった。



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この時期の日本へ行く外国人はかなり少なく、乗客は少なかった。

それでも「おかえりなさいませ」と言って日本人乗客を機内で出迎えてくれた

日本人の客室乗務員男性が強く印象に残る。



機内での日本の新聞には、原発事故を苦に自殺をした農家の方の記事があり、

心を痛めると同時に、日本の現実に徐々に戻っていくことを実感する。

成田に着いても、入国審査のゾーンは節電で暗く、

これからしばらくは地震と原発事故の余波が続くんだろうな、覚悟した。