子供の頃、「いただきます」と言ったのは小学校の給食くらいで、

お弁当を食べるようになって、からきし言わなくなっていました。



手を合わせて目の前の食物に対して「いただきます」という、

なんとも儀式的、形式的で意味の感じられないものだと思っていました。



それが最近、この儀式は瞑想につながるんだと気がつきました。

外食をしてお金を支払ったりという経緯はあるにしろ、

今、目の前に自分のために用意された食べ物があるということは、

瞑想的にその瞬間だけ切り取ると、それは実は奇跡的なことなんだと感じられたのです。

(自分はただ存在しているだけなのに)食べ物が存在している。

その奇跡的な状況に感謝という瞑想をするのです。

いつもいつもそう感じる、というわけではないのですけれども。



お金を払っているのだから当たり前だ、と、現実的には考えてしまいますが、

お金というものを取り払った瞑想の世界は、ただ感謝・ただ感動の世界だと思います。

お金という記号を超えた社会的な価値の源泉はそこにあると思っています。

いただきます瞑想は、そんな桃源郷の世界をちらりと垣間見せてくれます。