最近、アメーバピグのページを開くとき、つい「アメ~バ ピグ♪」と思わずつぶやいてしまいます。また、街を歩いていると、つい「リングディンドン♪ リングディンドン♪」と、木村カエラのまねをして口ずさんでしまいます。
最近、受験生なもんで、久々に「覚える」という作業を一日中やってたりする訳です。近頃は「知識は覚えても仕方がない、そんなものはパソコンのほうがはるかに高性能だ。だから、人間はその知識をいかに使うかが大事だ」なんていう意見も聞いたりしますが、なんというか、やっぱり脳みその中にないもんは使えないんじゃないかなあと、覚えている作業中に思ったりするわけです。
なぞかけが最近流行っているようですが、あれも、発想ももちろん必要ですが、ボキャブラリーのない人はまず思いつかんでしょう。
おっさんが親父ギャグを言ってしまうのは、ストックされた大量の言葉を脳内のコンピューターが勝手に連結させてしまうからだそうです。私も、女の子の発言を全て下ネタ方面に持っていってしまうというスケベオヤジ特有の症状に悩まされているところです。この病気、本人はものすごい上手いと思っているところにタチの悪さを感じさせます。
そもそも、「知識を使う」とは、何か新しいものを生み出す、人が喜ぶであろう何かを発想する、ということなんでしょうが、それは、本人の「印象のシンクロ」によって起こるんじゃないかなと、勝手に妄想したわけです。
※ここからの話は特に、本人の経験の印象に基づいた根拠のない話を何やらごちゃごちゃと述べるわけです。ようするに、いつものたわごとです。
個人的に、って断んなくてもブログなんて基本的に個人的な話ですが、お笑いの発想って、全ての創造的な活動の原点であると思うんです。別にお笑い芸人じゃなくても、会話の中で笑いを起こそうとするもんだと思うし、その笑いは、基本的には、会話の経験の蓄積だったり、既存の情報の適切な場面(笑いにとって)での使用によって起こるものだと思うんです。
「ここでこんなことを言ったら笑いが起きるんじゃないか」と思った瞬間には、体(口)は瞬時にその言葉を言っています。タイミングを逃しては笑いは起きないからです。この瞬時の判断もおそらく脳の中にある記憶を瞬間的に処理することによってはじき出されるのでしょう。
その場面と記憶が、同調し、混合し、そして、感動に至る。(この韻を踏みたくてこのブログ書いたようなもんだ)
結論としては、感動のない記憶(そんなものがあるのかはわからないが)には、意味がないということなんじゃないかと思います。勉強でも何でも、印象に残すような、感動的な知性との出会いであったほうがいいと思うし、何かを生み出すための、例えば英語の勉強だったら、英語を使って外国人と話せるようになりたいとか、そういう知的好奇心によって勉強したことが、結局は「使える知識」となるんじゃないかなと思うわけです。
今回のこの話も、かつて読んで心の中にいつまでも感動が残っている内田義彦の『読書と社会科学』が、私の中の別の経験と結びついて、私の中で形を変え、書きたくなるような印象の再構成がされ、外に出てきたんじゃないかなとも思ったりするわけです。
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おそらく私に大きな影響を与えている内田義彦三部作
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なぞかけが最近流行っているようですが、あれも、発想ももちろん必要ですが、ボキャブラリーのない人はまず思いつかんでしょう。
おっさんが親父ギャグを言ってしまうのは、ストックされた大量の言葉を脳内のコンピューターが勝手に連結させてしまうからだそうです。私も、女の子の発言を全て下ネタ方面に持っていってしまうというスケベオヤジ特有の症状に悩まされているところです。この病気、本人はものすごい上手いと思っているところにタチの悪さを感じさせます。
そもそも、「知識を使う」とは、何か新しいものを生み出す、人が喜ぶであろう何かを発想する、ということなんでしょうが、それは、本人の「印象のシンクロ」によって起こるんじゃないかなと、勝手に妄想したわけです。
※ここからの話は特に、本人の経験の印象に基づいた根拠のない話を何やらごちゃごちゃと述べるわけです。ようするに、いつものたわごとです。
個人的に、って断んなくてもブログなんて基本的に個人的な話ですが、お笑いの発想って、全ての創造的な活動の原点であると思うんです。別にお笑い芸人じゃなくても、会話の中で笑いを起こそうとするもんだと思うし、その笑いは、基本的には、会話の経験の蓄積だったり、既存の情報の適切な場面(笑いにとって)での使用によって起こるものだと思うんです。
「ここでこんなことを言ったら笑いが起きるんじゃないか」と思った瞬間には、体(口)は瞬時にその言葉を言っています。タイミングを逃しては笑いは起きないからです。この瞬時の判断もおそらく脳の中にある記憶を瞬間的に処理することによってはじき出されるのでしょう。
その場面と記憶が、同調し、混合し、そして、感動に至る。(この韻を踏みたくてこのブログ書いたようなもんだ)
結論としては、感動のない記憶(そんなものがあるのかはわからないが)には、意味がないということなんじゃないかと思います。勉強でも何でも、印象に残すような、感動的な知性との出会いであったほうがいいと思うし、何かを生み出すための、例えば英語の勉強だったら、英語を使って外国人と話せるようになりたいとか、そういう知的好奇心によって勉強したことが、結局は「使える知識」となるんじゃないかなと思うわけです。
今回のこの話も、かつて読んで心の中にいつまでも感動が残っている内田義彦の『読書と社会科学』が、私の中の別の経験と結びついて、私の中で形を変え、書きたくなるような印象の再構成がされ、外に出てきたんじゃないかなとも思ったりするわけです。
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