はじめに

 みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、久保田香里さんの「氷石」という作品について。天平九年、疱瘡が流行する平城京に暮らした千広という少年の夏を描きます。

 

「氷石」久保田香里(くもん出版)

 時は奈良時代、平城京。父とは、学問のために遣唐使として旅立ったために生き別れ、母とは疱瘡によって死に別れた千広は、孤児として生活することになる。疱瘡の流行までも利用して、必死に生き延びようと戦う彼が出会ったのは……。

 

 これは、以前このブログでも紹介した、「きつねの橋」の作者である久保田香里さんの作品だ。「きつねの橋」が面白かったので、他の作品にも興味が湧いて、手にとってみた。

 

 まず驚いたのは、奈良時代の身分の壁の薄さだった。平安時代のような身分制をそのまま奈良時代にも適用していた自分に気づく。作品の中で、千広の父は役人として遣唐使に旅立っており、また千広の叔父や従兄も裕福そうだ。だが、千広自身は貧しいながらも生きることを決意する。確かに生活の格差、貧富の格差はあるが、それが血によってはあまり決定しないことに驚いた。何しろ奈良時代が舞台なので、確たることは分からないだろうが、時代が下るにつれて裕福さと血の高貴さの結びつきが固くなっていたことは想像できる。逆にいうと、古い時代ほど、身分が曖昧だった、という簡単なことに思い至らなかった。

 

 それから、私自身の好みにも改めて気づけた。

 

 歴史小説には2種類あると思う。一つ目は、現代でも文献などに名が残っている偉人を主人公とした小説だ。これは、文献などに手がかりが残っているから、それに準拠しなければならない、という縛りがある。もう一つは、歴史に名が残らなかった無数の人々の中から、一人を造形し、その人を主人公として描く小説だ。これは、前者に比べ縛りは少ないが、文献に残りにくい庶民の生活などを、わずかな情報を頼りに作り上げなければならない。

 

 おそらく、私は今挙げた歴史小説のうち、後者が圧倒的に好きなのだ。もちろん、前者も面白いことには面白いが、後者の、人の命の儚さと生きることの意味を感じさせてくれる、という魅力には欠ける。

 

 私も含め世の中の大半の人は、死んでしまえばそれまでだ。しばらくは周囲の心にも留まるだろうが、その周囲もほどないうちに命を落とす。そうすれば、私という存在はなかったも同然ではないだろうか。では、それでも生きることの意味とは何だろう、と考えるとき、私を導いてくれるのが、まさにこの「氷石」のような、歴史に残らなかった人々を主人公にした歴史小説なのだ。

 

 千広も宿奈も、存在したかもしれないが、今は名を忘れられてしまった人々だ。だが、彼らのような人々が生きたことの意味は、絶対にある。彼らが市で、施薬院で、交わした会話には、生きる意味が伝わってくる気がする。儚いからこそ、そこに意味を感じられるのだ。私には上手く言語化できないが、何かがそこにある。つかまえがたい、けれど感じられる何か。それを感じさせてくれ、読み終わったときには自然と前向きになれていた物語だった。名を残せなくてもいい、ただ、彼らのように生きられたら……と願う。

 

おわりに

 ということで、ぼんやりした感想になってしまいましたが、本当に素敵な作品でした。ぜひ実際に手にとってみてください。次回は、同じく久保田香里さんの「駅鈴(はゆまのすず)」についてになると思います。どうぞお楽しみに。