はじめに
みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、ローマ皇帝だったマルクス・アウレーリウスの「自省録」についてです。戦場の中で、哲人皇帝と呼ばれたマルクスが、何を考えてたのか。その片鱗を覗いてみませんか。
「自省録」マルクス・アウレーリウス(岩波文庫)
聖書を読んだことはあるだろうか。何なら新約聖書、その中の福音書だけでも良い。読んで、どのような気持ちになったか。
私は、敬遠した。イエスならともかく、こんな聖書が求めているような聖人になど、なれる気がしなかったのだ。こちとら、ただの人間である。自分が嫌だと感じることをされた相手に、仕返ししたくなるのも、自然な心の動きではないだろうか。そんな私に比べ、聖書の語る人物像は、あまりにも理想的すぎて、到底なれる気がしなかったのだ。
しかし、この「自省録」は、そんな押しつけがましい感じは一片もしなかった。ただひたすら、自分と向かい合っているせいだろうか。自省というより、自制、と表したほうが良さそうなところもあり、マルクス・アウレーリウスにも、我慢のならない相手がいたのだろうか、などと想像してしまう。部下との間が上手くいかなかったりでもしたのか、自分の中の怒りを必死に押さえ込んでいるように受けとれる部分も多々あり、非常に好感が持てたのである。等身大の自分を受け止め、その先に進んでいこう、という前向きな気持ちが端々から感じられ、私も、ダメな自分を受け入れられるような気がした。
一番面白かったのは、五巻の一章である。
明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ」
こんな文章から始まるのが、五巻である。自分に向かって書いているのであり、他人への呼びかけではないことを考慮すると、やはり朝は眠かったのか。哲人皇帝と呼ばれ、のちの数々の人物から尊敬を浴びた彼さえ、朝には弱かったのかと思うと、笑いがこぼれるのを抑えられない。重々しい響きをまとった哲人皇帝という二つ名からは、想像もできない、人間味のあふれた彼の姿がそこにあった。冒頭で取り上げた聖書よりも、圧倒的に好感が抱ける。眠いときにこんな哲学的なことを考えるのも、ここまで来るとおかしいし、よほど哲学が好きだったのだと呆れを通り越して感心してしまった。しかも眠い自分に対する戒めが登場するのは、五巻の初めだけではない。八巻の十二章も、こんな文言から始まる。
眠りから起きるのがつらいときには、つぎのことを思い起せ。社会に役立つ行為を果すのは君の構成素質にかなったことであり(以下略)
そんなこと眠いときに考えないよ、と突っ込みを入れたい。考えてないで早く起きた方が良い。といっても、私も朝方起きなければならないのに眠いときには、この文章を思い出せば笑いの発作に囚われて眠るどころではなくなるから、その点では役に立つだろう。
と、まあ散々くだらないことを取り上げてきたが、本当に参考になる、うなずかせる箇所も多々ある。全部引用していたらきりがないので、ほんの一部だけここに書かせていただこう。
もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ(六巻六章)
よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやり続けるであろう(八巻四章)
怒りを爆発させたくなるときに、大変お役立ちである。この言葉を思い出してじっと耐えていれば、波が過ぎ去ってくれるくらいの時間は稼げるに違いない。こんな文言が目にとまるのだから、私も多分疲れている。
そして、マルクス・アウレーリウス自身も、様々な文書から引用している。これらの引用された語句の出典が、注を見ずしてぱっと出てくるようになったら、それはもう最高だろう、などといつになるか分からないことを思った。セネカやエウリピデスなど、哲学方面にも興味が湧く作品だ。
また、戦場という過酷な環境に身を置きながらも、ここまで自らを律し続けた彼を尊敬する。はるか遠い昔に生きた彼の声を、こうやって紙を通して聞けるということの貴重さ、奇跡が心に迫ってきた。哲学とは何か、人とは何かを考えさせられる著作だった。
おわりに
ということで、「自省録」についてでした。高尚な響きの作品なのに、なんかどうでもいいことばかり書いてしまって申し訳ありません。でも、本当に書いてあるので、仕方ないですね。
さて、次回は「マキアヴェッリ全集1」について書けたらいいな、と思っていますが、まだどうなるか分かりません。「北欧神話と伝説」もゆっくりとではありますが読み進めています。それでは、またお会いしましょう。最後までご覧くださり、ありがとうございました!