はじめに

 みなさんこんにちは、本野鳥子です。今回は、長かった十二国記の再読もついに最終回を迎えます。初回である「魔性の子」はこちら。ネタバレございます、未読の方はご遠慮ください。それでは今回も、十二国記の世界、戴へ向かうことにいたしましょう。

 

「白銀の墟 玄の月 十二国記」小野不由美(新潮文庫)

 

 この壮大な物語に、いったいどうやって決着をつけるのか。それが気になって、仕方がなくて、この本が刊行されて、発売日に本屋さんに急いだ。その日のうちに読み終えてしまったことも、もう去年のことになってしまった。

 

 しかし、これを通読するのは、実のところ、まだ二回目なのだ。1、2巻は発売直後に一回と、3、4巻の発売直前に一度読んだので、これが三回目になるが、3、4巻は発売直後以来、読んでいなかった。

 

 だからだろうか、初めて読んだときの心情を思い出し、また涙してしまった。数々の犠牲を払って、築き上げてきたものが、何度も何度もあっけなく崩れ、希望を持つことを恐れるようになってしまったその先に、新しい光を見せてくれる物語だ。李斎たちとともに、驍宗の行方を追い、項梁と、真意の見えない泰麒に戸惑いながら、何もできない無力感に苛まれながら、それでも文字を食い入るように追う時間。その時間を経て、十二国は、もはやフィクションとは思えなくなっていた。どこかに確実にあって、それを作者はありありと見てきたのではないか。そんな思いすら抱いてしまう。それほどに、確固たる世界観と、生き生きした登場人物たちが、私の中に巣くってしまった。広瀬のように、故郷を喪失してしまったかのような感覚が、生まれている。

 

 シリーズの始めである、「魔性の子」。泰麒の中に、そこで築かれた犠牲の山が、重々しく影を落としているのは、確実だ。しかしそれらは同時に、泰麒を、麒麟としてはあるまじき冷徹さに育て上げた。必要が生じたならば、剣を手に取り、自ら血を浴びる。使令たちに任せ、目をつむるのではなく、直接手を下す泰麒の姿は、琅燦でなくとも、目を見張るに違いない。初めて泰麒が自ら人を傷つける場面で、つぶやく言葉が胸に刺さる。

 

 誰のことを指しているかなど、問うまでもない。「魔性の子」では、直接的に描かれず、あいまいだった泰麒の心情が、ここで初めてこぼれ落ちる。そうか、彼にとって、「魔性の子」でのできごとは、あまりにも最近のことなのだ、と改めて思い出すのだ。神籍にいる彼は、きっと広瀬が死んでも、異界で生き続ける。だが、彼はきっと、その永遠にも思われる長い生が終わるまで、広瀬のことを忘れまい、と感じた。

 

 それ以外にも、シリーズの他の作品との関連が、多々見つかった。たとえば、驍宗が初めて黄海に入るときは、才の昇山者に同行するつもりだったという。そのときの昇山は、王が斃れて以後、初めてのもので、その中から王が出た、とある。「華胥」で描かれていた砥尚と、驍宗は、ひょっとして相まみえていたのか。そんな想像が、膨らむ叙述だと思う。冬官は、あまり政治に関わりがないゆえに、長く残っているものも多い、という話には、「丕緒の鳥」を思い出さずにはいられない。

 

 壮大な十二国記の、集大成とでもいえるような、そんな物語だった。読む度にまた、十二国への理解が深まるだろうと思う。今年も、オリジナル短編集が刊行されるとのこと。期待に胸が踊る。

 

おわりに

 というわけで、ここで十二国記の再読は終わりになります。また機会があったら、やりたいと思いますが、とりあえず十二国記については一旦ここまでとさせていただきました。次回は、「銀河英雄伝説」の再読していきたいと思います。また長い長編を読むことになりますが、ぜひまたお付き合いいただけると嬉しいです。

 

 つたない筆で、長々と十二国記についてお話ししていきました。ここまでお読みいただいたみなさまには、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。またぜひ、この船で本の海に旅していただけると幸いです!