11月21日(月)雨

孫文率いる、辛亥革命を描いた中国映画 1911

ちょうど100年前、時は、清朝末期。
西太后を最高指導者と仰ぎ、古き王朝を守ろうとする人々。
その子、愛新覚羅溥儀がまだ幼なかった。

弱体化した中国を狙う海外の列強諸国に包囲されつつある中、これ以上は諸外国の食い物にされてはならじと、
人間らしい生き方を復活させ、海外と対等に肩を並べられる近代国家への理想を掲げて、清王朝を相手に中国全土に革命の嵐を興して、成功させた「孫文」。
その理想に命を懸けて戦った孫文と若い人の激烈な闘いと勝利への道のりを描いた作品であった。
それにしても、高邁な理想を実現するには、武力しかないというのが悲しい。
孫文は、無血革命を行おうとしたが、相手が武力で潰そうとする。

100年前ともあれば大昔。
ましてや、外国の歴史、中でも大国中国の歴史がどれだけ、日本の若い人々に知られていくのだろう。
昨日の事も、1か月前の事も、今では矢のような勢いで、いや、矢よりも早いデジタル世界の流れは、歴史をかき消そうとする勢いだ。

ジャッキーチェンは総監督
戦闘場面が多く、鉄砲や大砲などでバタバタと倒れた何千人もの犠牲者の多くが若者だった。
歴史上、高名な「袁世凱」は、私利私欲の塊で、政争を利用して私腹を肥やし、政治の中枢に潜り込もうとする人物で、孫文や汪兆銘と言った人物とは、見事に対極の人物。
ジャッキーチェンが孫文の片腕として統率力に秀でた大将として、出演している。
格闘場面ではジャッキーチェン映画を観ているような早業、カンフーも出た。

「辛亥革命」は、清王朝を倒して、「中華民国」を建設しようとした孫文の国家建設の大きなきっかけであった。
しかし、広大な中国を統率する事は難しく、国民党が首都を南京に於いて統治を始めようとしたが、やがて、毛沢東(八路軍→共産党)と蒋介石(国民党)の内戦となった。
結果、ソ連を背景に戦った毛沢東の「共産党」が、アメリカを背景とした蒋介石の「国民党」を破り、現在の共産党国家の基礎を作る事になった。国民党は、台湾へ逃げる。

せっかく、民主国家を目指して多くの犠牲を払ったと言うのに、天安門事件に見られるような、またネット規制に見られる自由への制裁など、孫文の願った国家とは程遠い現実があることに、中国の難しさを感じる。
それでもやはり「孫文」は、中国の偉大なる革命の父。

今年は、「辛亥革命」100年記念の年で、この映画が作られたようだ。
孫文が諸外国の大使や実業家たちを前にして演説する姿は、気持ちの良いほどである。
封建国家から脱却し、西洋諸国と対等な近代国家を目指す必要性を訴える。
日本の明治維新に当たるような、国家の一大事であり、国の姿が大きく変わろうとしていた。

日本では、こうした歴史も次第に、忘れられていくような気がするが、日本が国際的に活躍していくためには、歴史を知り、孫文のように、物おじする事なく、自国のことを主張できるリーダーが育たないと危ない、危ない。

伊東博文は、列強の非難を恐れて孫文への支援を止めてしまった。
孫文は、日本からの支援を得られない事から、進撃を断念せざるを得なかった。
その中止命令を孫文に伝えたのは山田良政と言う人物。
田中氏は、孫文に面目ない、このままでは革命で倒れた同志に申し訳ないと思って、政府が反対しても孫文の側について彼を支え続けたが、31歳の若さで中国内で戦死。
中国は、彼の業績をたたえて、彼がメガネをかけて馬に乗って疾走する大きな像を建立した。
孫文は、その死を悼み、日本の実家へ哀悼の手紙や書を送っている。
情に篤く、義理堅い人。
その弟、純三郎は、兄亡き後、終生、孫文を支え続けた。
映画館は、午前中だったためか、月曜日のせいか、観客は総勢4名だった。

辛亥革命 100年「第1回 孫文 革命を支えた日本人」                 NHKBSプレミアム 午後10時~11:30 
<以下は、忘れないために放送中のことをメモしたもの>

ちょうど このブログを書き終えたらBS放送で、「孫文」のことをやっています。 (22:00)
この番組を見る事でできて、映画ではわからなかった背景について理解を深める事が出来ました。
孫文は、12歳の時、ハワイに渡り、欧米式教育を受けたことから、国際感覚を持った孫文に育ったそうです。
故郷の子孫が語るには、小さい時から不正や不平等にとても反応する子供だったとか。
革命の道を歩み出したのも、貧しかった中国の人々を救いたいと思う孫文の強い正義感が働いていたとも言われます。
孫文が会った日本人は約千人
孫文を支援した日本人の中でも、「宮崎滔天(みやざきとうてん)」、山田好正と弟の純三郎、梅屋庄吉らの支援は精神的にも財政的にも、最後まで孫文との間に信頼関係が続いた人達。
犬飼剛も意気投合、孫文の「革命による変革と、その後の中国国家建設」への情熱のこもった演説を聞いて、一夜にして孫文の魅力にひかれてファンとなった人達が多い。

孫文の三民主義 
・人民による人民の為の人民による政治
・10年間に9回蜂起するも、ことごとく失敗した。

辛亥革命に参加した進軍の中で、日本の教育を受けなかった人はほとんどいなかった。
1912年 1月1日、中華民国設立。 孫文は、臨時大総統に就任。 日本の支援者に感謝した。
最近、陸軍の中で、ひそかに孫文を支援していた事が判明した。
15年にわたる、『宇都宮太郎の日記』に、孫文を巡る秘密工作があったことがわかった。

1911年10月28日、 宇都宮は、岩崎弥太郎の息子、久弥を三菱本社を訪ねる。
「極秘資料」と書かれた資料とは、中国政策に対する意見書。
中国における、日本の権益を確保する為に、孫文の革命を支持するため、金10万円、現在の1億円以上を支援してくれと頼んだところ、久弥は、黙考した後、決然として「承知いたしました」と述べたと書かれている。
これは歴史を書き換えるくらいの出来事だ。(専門家)

国家機関が依頼すれば大事であるが、個人的に資金提供を要請したならば、三菱との関係が知られないからである。その資金で秘密工作を開始、公式ではなく、個人と三菱との私的なルートを使ったのである。

日本人兵士が約40人、武省、北京 モンゴルなど辺境の地に派遣された。
ロシアとも接触し、関わりを大きくしていく機運を作り出した。
日本にとって優位となる条件を引き出すよう、中国を良く知る、金子新太郎という元、陸軍退役軍人を使った。
孫文の率いる南軍と袁世凱の「北軍」を分裂させ、孫文を支援しようとした。
これは、中国における日本の優位を期待したためである。
しかし、中国は期待と違って、袁世凱の独裁政治が強まり、やがて、その動きに乗じて日本軍は、孫文の革命派を弾圧するようになる。孫文は、北軍を討伐しようとしたが失敗する。

亡命した孫文を日本政府は受け入れなかった。
孫文は、亡命生活を余儀なくされ、窮地に立たされた。
孫文は、明治維新を成し遂げた日本を称賛し、中国も新しい国家建設を夢見たが、支援をしてくれていたはずの日本に裏切られることになる。
日本が、列強と同じ様に、侵略による帝国主義を歩もうとすることに気付き、日本と決別するところまでが今夜の内容であった。

日中の強い関係が築かれる大きなチャンスだったのに、日本は列強と同じ様に、中国から何らかの利権を取ろうとして、孫文が提唱したアジアの友好関係に背を向けてしまった。
孫文を支援したのは、孫文の情熱、人柄を信じた個人であって、決して国家ではなかった。
映画で、
「袁世凱」が、清王朝を救うと言う言葉の裏に、甘い汁を吸おうと言う野望が見え見えだったことと同じだ。

今年の6月18日に「愛知大学」の資料館を見学した時の記事
http://blogs.yahoo.co.jp/machihit2004/52264840.html

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右が孫文の写真、中央の書は孫文が、山田良政の死に際して贈ったもので、
故郷の墓碑に刻まれている。中央が山田良政。左が家族の写真。



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これは、当時の学生たちに中国の全土にわたって調査旅行を行った時の詳しい資料。
どこをどう歩いたか、世界でもこの様な大規模の調査旅行、その記録は例を見ないと言うことです。日本と中国が良好な関係を築いていたからこそ、できた大事業。
知りませんでした。

中国を理解する日本人学生を多く輩出するこの「東亜学院」(愛知大学の前身)から、孫文を生涯支え続けた日本人、山田良政のような人が出ている。その弟、純三郎も兄の意志を継いだ。
その後、日本と中国は戦争をはさんで、孫文が願っていたような友好関係を築けずに不幸な時代に入ってしまいました。なんとも、無念な歴史を刻んでしまいました。