こんにちは、リブラです。今回は、ウエイン・ダイアー著「老子が教える実践道(タオ)の哲学」の解説です。
第50章「死超える『生』を見つける」
「生まれた者は、いずれ死ぬ。10人に3人は、天寿を全うし、10人に3人は、早死にする宿命を負う。そして、10人に3人が誕生から死ぬまで、あたふたとこの世を駆け抜ける。
死ぬのは、なぜか?生きることに、こだわるから、束の間の世にしがみつくから。
しかし、10人に1人、死を知らない者がいるという。その生きる勢いは、虎や野牛を遠ざけ、戦場では武器を跳ね返す。
犀の角もとらの爪もその体を切り裂けず、兵士の剣も、彼を貫くことはできない。
なぜ、そこまで生に守られる?そもそも彼の立つ場所に、死は踏み込めない。
生命の真髄に立ってごらん。終わりではない終わりを目にすることができる」
ー老子が教えるタオの哲学ー
自分が死んだところを想像してみてください。
目の前には、あなたの生命の抜け殻が横たわっています。それを眺めている「あなた」は、その同じ注意を、起きて日常の仕事をこなしている今のあなたの身体に向けてください。生命が抜けた身体が何ものにも傷つけられないように、生きて動いているあなたも、もうどんな危害も恐くないはずです。
だって、その身体は「あなた」ではないーあなたは、あの抜け殻を眺めていた無形の生命そのものなのですから。
あなたは自らの存在の真髄に立ち戻って、自分の地上の容れ物の死を1度体験したのです。そこから生じた新たな視点を忘れなければ、もう、あなたは不死身、自由を謳歌できるでしょう。
「わたしは生き方を学んでいたつもりだったが、実は、ずっと死に方を学んでいたのだ」
ーレオナルド・ダ・ヴィンチ
今日のタオ
不死身のイメージトレーニングをしましょう。
虎が跳びかかってくるが、あなたは平然と進んでいきます。剣が突き出してくる。しかし、あなたには刺さりません。あなたの身体に何が起ころうとあなたは無敵の鉄人。その「不死身の実感」で、あなたの真髄に眠っている防御の力を呼び覚ましましょう。
そうすれば、あなたは、思い描いたバーチャルな冒険家どおり、現実でも無敵の勇者になれるでしょう。とダイアー博士は言っています。
わたしがこの人生で初めて死を意識したのは、9歳のときでした。この世の中で1番好きだった祖母(母方の)が闘病の末に亡くなり、お葬式に参列したときでした。祖母は、無条件の愛でわたしを愛してくれる唯一の人でした。
冷たく硬くなってしまった祖母の手に触れたとき、「もう、お婆ちゃんはここにいないんだ。もう、会えないんだ」と絶望的な気持ちになりました。納棺するとき、祖母が草鞋を履き杖を持つ旅支度を施されているのを見て、この世でない別世界に行ってしまったことを痛感しました。
お葬式が終わり日常に戻っても、祖母を失った悲しみや絶望感は癒えることがなく日増しに強くなっていきました。そんなとき、テレビのニュースで自殺の報道を目にしました。「自分で命を絶つこともできるのか」と、幼いわたしはまるで良いアイディアを貰ったかのように自殺を考えていたのです。
父は4人の子どものうち大事なのは弟だけと言うし、母もわたしを家事や子守りの手伝いと愚痴の聞き役としか思っていない。わたしのことをほんとうに愛して歓迎してくれるのは祖母だけだから、この世に未練はない。あの世に行こう!と首つり自殺の決行を試みたのです。
ベランダの手すりにタオルを括り付け首を引っ掛け体重をかけると、すぐに結び目がほどけてコンクリートに頭をぶつけるだけでうまくいきませんでした。やけっぱちになったわたしは、いっそのこと自分で首を絞めてやれと両手で思い切り首に巻いたタオルを引っ張りました。
そのとき、手が止まってしまうのを不思議に思いました。それまでは、わたしの手も足もわたしが思う通りに動かせる(自分=身体)と思っていました。だから、首に巻き付けたタオルを思い切り引っ張るという命令にわたしの手が背くことに驚いたのです。
「死にたいわたし」と「死にたくないわたしの身体」がいると実感して、衝撃を覚えたのでした。「死にたい」と思っているわたしは意識できるけれど、そう思っていない身体のわたしって何なんだろう?わたしの中にもう一人わたしがいるの?」と、そこに気づいたわたしは、その謎を解きたい気持ちでいっぱいになり、その謎が解けないうちは死ねないと思いました。この世の未練ができたわけです。
だから、理科の授業で玉ねぎの細胞を顕微鏡で初めて目にしたときは、見えないけれど細胞一つ一つにも命があり、全体を構成している驚きに圧倒されました。木も花も風も水溜まりの水も、見えない命に満ち溢れ、自分の身体もそんな細胞の集まりで出来ているのです。
人間の知性をはるかに超えたものが創り出したこの世界の中に、身体の中にわたしは住んでいるけれど、わたし自体は細胞の1つでもなく、形態はない。生きているってどういうこと?身体でないわたしってなんなのだろう?
そう思ったから、顕微鏡下のミクロの世界に夢中になったのも、ホロスコープに夢中なったのも、祖母の死の1年後でした。そしてわたしは、身体のしくみを学んで臨床検査技師になり、見えない心のしくみを知るためにホロスコープとスピリチュアルな叡智の探求をすることになったのです。
今では身体は乗り物、本質は魂意識、そして潜在意識の住人のインナーチャイルドを始めとする副人格たち、身体を管理する生存本能由来のエゴ、それらを全部まとめて「わたしである」という理解に至りました。
わたしは9歳のとき、死を意識したことで身体とは違う、見えない自分の存在に気づくことができて、生きる世界が2つになったような気がします。そして、見えない自分の存在を認めることで、身体の死を超えて永遠に存在する自分を確信することができました。
次回も「老子が教えるタオの哲学」の解説を予定しています。
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