こんにちは、リブラです。
今回も「想定の『超』法則」覚書き第2弾です。
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1.I AM
「ただ1つの意識(光)が、多くのものや意識レベルに形を変えて、顕現しているのです。」
ウォレス・ワトルズ「富を引き寄せる科学的法則」でも、「宇宙はただ1つの知性ある物質で創られ、満たされている」とありましたね。
「(ただ1つの)意識には、いかなる分離も隙間も存在しません。自分という存在(I AM)は分割できません。金持ち、貧乏人、乞食、泥棒、どう定義しようとも、存在の中心は不変です。」
ここでは「ただ1つの意識(創造主)」も「自分という存在(I AM)」も、同じものとして説明されています。
よく、創造主を宇宙に例えると、人間は小宇宙といいます。同じものでできているから、しくみも一緒だということですね。
創造主が「私が在る」といえば、その一言で意図する世界が創られます。わたしたち人間も「私が○○である」と宣言すると、その現実が創造されるというしくみなのでしょう。
「『私は在る』という揺るぎない絶対感覚に気づき、つながることで、自分を含めたあらゆる現象の原因=意識(光)を変えることができる。意識=光を変えれば、人生すべての問題を解決することが可能となる。人生で起きるすべての現象は意識(光)が決めているからである。」
この本のエッセンスというべきものが書かれているのですが、7年間アブドルから古代ユダヤの叡智を伝授されたネヴィルにはできても、意識が目覚めていないわたしにとったら、ハードルが高すぎてイメージすら浮かびません。
「私は在る」という絶対感覚ってどんな感覚?という素朴な疑問が湧いてきます。
たしかに「私は○○である」と明確にいうことができれば、「私は在る」という実感は揺るぎないものでしょう。でも、自分自身を完璧に理解することができないから、苦労するわけです。理解というよりも、なんとなくわかっているのだけど思い出せない、というのが一番近い感覚です。
結論は創造主と同質で同じしくみ、だから「私は私の人生の創造主である」と揺るぎない実感を持てばよいのはわかってはいるのですが・・・ね。
映画「マトリックス」のネオは、この葛藤をほんとうによく表現しています。
彼は人工知能のロボットが支配する仮想現実社会で育ち、人間がロボットの奴隷にされていることを知らずに生活していました。ある日突然、本物の人間社会を救う救世主だと告げられ、現実と仮想現実のリアリティに混乱するうち、人間VSロボットの戦いに放り込まれます。
人間社会のリーダー、モーフィアスと救世主のパートナーになることを予言された女性トリニティは、ネオが救世主であると主張するのですが、予言者は救世主だとは言ってくれません。
ネオは救世主の自覚もないまま、救世主として言われる存在の違和感に悩むのです。
予言者は「心と体がそう実感しなければ、救世主にはならないわ」といいます。
ネオが少しずつ救世主として目覚めてくるのは、救世主としての選択(自分の命のことよりも、モーフィアスを救出する方を選んだ)と行動をとるあたりです。そして、ラストシーンの地下鉄でのスミスとの戦い。スミスに線路に投げ飛ばされ、「もう、終わりだな、Mrアンダーソン」といわれたとき、ネオはこう宣言します。
「わたしはネオだ!」
この宣言が効いたからこそ、銃撃で心停止しても復活したのかなあとわたしは見えてしまいました。(トリニティのキスで目覚めたと見るほうがロマンチックだけれども)
復活したあとのネオは無敵でした。もう、自分が何なのだろうかという迷いはどこにもありません。創造主そのものです。ネオに向かって発射された銃弾は、すべてネオの目の前でゆっくり止まってばらばら落下します。まるで、銃弾を作っている物質が意思を持ち、創造主の意図に従っているようでした。
畏れ多いけれど、自分が自分の人生の創造主であることを、自覚と実感を伴って宣言すること。これ無くしては「想定の『超』法則」は成り立たないということでしょうか。
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