実体験を交えて書きますが。
例えば私が、知人と都会の道路を歩いていたとします。
車道には、いろんな車、バイクが通り過ぎます。
私は、車に関する記憶はまったく残りません。まったく車には興味が無いからです。
いっぽう、車好きで、ディーラー関係に努めている知人は、実にいろんな事を教えてくれます。
あの車であの色は○年式の○○エディションだよ、とか、
最近はああいうハイブリッド車が人気があるね、とか、
あのオプションは純正には無いからどこか別の工場で付けたんだね、など。

またある時、車のめったに通らない農道で歩いていて、
夜道に一台の車が通り過ぎたとします。
次の日、「この周辺で事故があったのですが」という聞き取り調査をしていたので、
「○時ぐらいに、黒いセダンがけっこうスピードを出して走っていきました」
という記憶に残っていたことを伝えました。


これ、どういうことかというと、「情報を得るだけでは、知識や記憶として定着しない」
ということなんですよ。

最初の例で言うと、情報(車)がいくら増えても、受け取る人間がその情報に集中しなければ、
それはレストランで流れるBGMのように、まったく意識していないのと同じことだということです。

2つ目の例で言うと、情報が多いほど記憶が増えるというわけではなく、
少ない情報環境の中で与えられた刺激(情報)のほうが、記憶に残りやすいということです。


これらのことを踏まえて、現在の「情報洪水」と呼ばれる環境にある私たちは、
どういうふうに「情報を呼吸」しているのか、という点に興味があります。

シンプルに言うと、「できるだけ多くの情報を入手すること」ではなく、
「どの情報に意識を集中するか」「どの情報を取捨選択するか」が、
これからの生き方にとって重要だと考えます。


なにを、当たり前なことを今更ながながと書いているのだ、
と思うわれる方も多いと思いますが。

自分が「情報を選択している」と思っていることが、
実は「誰かに選択させられている」という可能性を常に疑い続けなければいけない時代、ということなんです。
マスメディアはもとより、マスコミ、広告代理店、広報担当者、マーケティングに携わる人など、「その筋の人」によるノウハウの蓄積は、恐ろしいスピードで発達しています。
それにたいして我々はいかに無防備であるか、という再認識が必要だと思うのです。
具体的には、「不要な情報をはぶくためのフィルター」と「情報を得るためのフィルター」を持とう、ということです。


話は変わりますが。
 一時期、「ミセスワタナベ」と呼ばれる日本人のFXの投資家や、個人の株式売買が、市場の動向を左右するほどの影響力を持っている、という話を聞きました。
 この情報には続きがあります。個人投資家の動向を先読みし、儲けをさらっていく機関投資家の話題です。
 つまり、素人の単調な動きや集団心理を手玉に取り、勝ち続けるプロ集団がいるという構図です。
 これは個別の話ではなく、市場全体の動きのようです。例えば株価が下がり、個人の投資意欲が下がっている時に買い、株式投資がブームになり、株価が上がった時に売る、という手口です。
 これなんかは、個人で売り買いしているだけではまったく気づくことのない現象です。



 情報の間口(チャネル)は広く、焦点はきっちりと、という自戒を込めたお話でした。