憲法にはこう記載されている。

 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 総意と言う意味が全員が賛成しているとするならば、反例はいくらでも上がる。社民党や共産党、日教組は天皇制に反対だろう。中核派や革マル派は公然と天皇を批難している。これらの人々全員が日本国民ではないと言うことはないだろう。少なくとも国会議員は国民だけがなれるのだから、日本国民の全員が賛成していることにはならない。もし、総意が全員の賛成と言うのであれば、天皇制可否の国民投票を行っていなければならない。

 総意という意味は、国民全体を一人の人間と見做し、それが持つ意見のことだ。例えば、集団で狩りを行うライオンやハイエナ、イルカなどが狩りに行くとき、「そろそろ、狩りに行こうと思う。多数決を取ります。行った方が良いと思う者、前足上げて」と多数決で決めている訳ではない。それぞれの個体が仲間の様子を見ながら、仲間の感情や体調を読み取って狩りに行く。そして、追い込む担当、待ち伏せる担当と自然に分担ができて狩りが行われる。集団が一つの意志を持っているように行動するのだ。これは、日本古来からの「和」というものと同じだ。聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と言っているように、日本では多数決による決定ではなく「和」すなわち「総意」による決定が重視されてきた。

 総意と多数決では異なる結果が出ることがある。例えば「天皇制はどちらかと言うとない方がいいような気がするが、有力者が絶対必要だと言っているから、黙っておこう」と言う人は、多数決では反対票を入れるが、総意では意見を言わない。実に、あの共産党でさえ、天皇制は将来なくなるが今は容認すると言っている。共産党は国民を見てそう言っているのだ。

 総意ではなくなるとしたら、例えば、天皇制反対の大きなデモが頻発するとか、TVなどのメディアで公然と天皇制批判の番組が出てきた場合だ。この場合、民意が割れて国民の意見が2つに分かれることになるから総意ではなくなる。しかし、戦後、今までそういったことは無かった。つまり、今でも天皇制は国民の総意となるのだ。