地球を守って行こう ニコニコ音譜
グリーン・オーシャン戦略 ―「恩」を次の世代につなぐ経営実学/中野 博
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・社会貢献。環境保全、貧困問題の解決などのCSR活動を前提とする新しい経営戦略のことを指す。
・「地球および自然」「企業の成長と利益」「人間の幸せ」のトリレンマをいかに解決するか?そして売り手、買い手、世間、地球の「四方よし!」こそがこれからの経営と説く。
・知恵と工夫をこらしながら、美しい大自然の恵みを、次の代へ美しいまま残す。そうした努力を多くの仲間や、企業、NPOなど協力し、本気で取り組むことこそがこの「グリーン・オーシャン戦略」の神髄。


出過ぎる杭は打ちにくい!―1万メートル上空から観た人生成功人間学 (サンマーク文庫)/黒木 安馬

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黒木さんから  ⇒  「たまには各駅停車の人生もいいもの・・・」

「近江商人」と聞けば、幼い少年が天秤(てんびん)を担いで鍋蓋(なべぶた)を売り歩くが、
一つも売れずに途方にくれる映画“天秤の詩”を思い出す。
早朝から深夜まで商いに精を出す“気張る”、
商売の実態に応じた支出と質素倹約“始末”の二つの心得で、
全国くまなく、東南アジアまで商圏を広げての豪商も多く輩出した。
商人だけが儲けるのではなく、お客様にも満足してもらい、
常に社会にも貢献する「三方良し」の哲学は、この近江商人を発祥としている。
信用第一、物不足に便乗した値上げは厳しく戒め、人から愛され、
橋の架け替えなど積極的な寄進を心がけ、
水郷地帯特産である畳表や蚊帳を主とした近江の商人。
少額資金と天秤棒を肩に行商を始めて豪商にまで成功しても、
小商人時代のシンボルとして初心を忘れることがないように
店の片隅に天秤棒を掛けておく“千両天秤”は今も残る。

古事記では琵琶湖一帯を近淡海(ちかつ・あはうみ)、
後に江州(ごうしゅう)と呼び、それが近江(おうみ)になる。
ここに安土城を築いた織田信長、
その妹を妻にした地元戦国武将・浅井長政。
その浅井の三女であり、
徳川二代将軍秀忠と結婚して三代将軍家光を生む女の一生を描いた
NHK大河ドラマ、“お江(ごう)”の名前はここから来ている。
豊臣秀吉の姉の長男秀次は、
秀吉の養子となって関白にまでなり、
琵琶湖を往来する船をすべて八幡堀運河に寄港させることで、
楽市楽座で活気あふれる全国へ旅立つ商人の町に造り上げた。
後に、秀吉に実子の秀頼が生まれるや、
秀吉は非情にも秀次を切腹させてしまう。

その近江の中学校PTAで講演することになり、
いつも米原や彦根など新幹線で素通りばかりしていたから、
一日早めに出かけて、初めての近江八幡を散策した。
有名な近江牛の知識ぐらいしかなく、どこに行くあてもなくホテルのフロントで観光名所を聞く。
琵琶湖が見渡せる八幡山ロープウェイや八幡堀、博物館などを説明され、
ヴォーリズ建築はお勧めですね、と言われる。

ヴォーリズ? 聞いたことの無い名前だった。

ホテルの車で旧市街まで送ってもらい、降ろしてもらった所には、
少女が花を手にして西洋人の紳士に渡そうとしている二人の銅像が立っていた。
その道路向かいには「近江兄弟社」と看板のかかっている3階建ての小じんまりとしたビルがあった。
少女のナース姿マークで気づいたが、そこは何と懐かしのメンソレータムの本社だった。

中で説明を見ているうちに、
近江兄弟社の創業者がヴォーリズと知る。

建築家だったが宣教師に転じた米国カンザス州生まれの
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)は、
日露戦争1904年の翌年、滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として来日する。
ところがキリスト布教活動を快く思わない反対派にあって教師をやめ、建築家としてスタートする。
初めて知ることが次々に出てくる。
“建物の風格は人間と同じくその外見よりもむしろその内容にある”との信条で、
全国に1600以上に及ぶ建物の設計を手がけた・・・
代表的な建築に、
大阪心斎橋の大丸デパートや同志社大学、西南学院大学、神戸女学院大学、
関西学院大学、東京山の上ホテルなどと書いてあるのが目に入って驚く。
講演した時に社内を案内されて見学した会社で、
昔の建物は素晴らしいと感心した大同生命大阪本社ビルもヴォーリズの作品だったのだ。
彼の建物が近くにも数件あるという。
その古い教会に入るとオルガンが堂内に響いていた。
ヴォーリズが初めて日本に紹介したハモンドオルガンだと神父が説明する。
見た目は確かに年代物だが、音は天に届く壮大な音色である。
少し歩くと、近江牛の肉屋の前に映画みたいにレトロな「旧八幡郵便局」が残っていた。
土間ときしむ板張りの床に踏み込むと、タイムマシーンに乗って幼少時代の町役場か
夢のどこかに迷い込んだような懐かしく心地よい錯覚に陥った。

自ら設計した明治学院礼拝堂で、子爵の娘満喜子と結婚式を挙げ、後に帰化。
終戦時にはマッカーサーと近衛文麿との日米仲介でも活躍し、
「天皇を守ったアメリカ人」と言われたとか。
ホテルニューオータニなどが開業し、
新幹線が走り始めた東京オリンピックの1964年、
自宅2階で、83歳で永眠。

往時の近江商人たちの活況を想像しながら、
時代劇のロケに今でも使われている八幡堀の川べりを歩く。
世界の空を30年間も回って来た割には、
あまりにも知らなさ過ぎる我が美しき日本の一舞台を覗かせてもらった新鮮な旅であった。



不満を言わず、明るく楽しく、精一杯生きる人に、夢と人が集まる
今日会う人によって、人生が変わると思って、人に会う