成「幸」学 人生の「正面教師」たち/黒木 安馬
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黒木さんから


 「史実は時代とともに・・・・」

坂本龍馬とは土佐での幼馴染という設定で、
三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が過去を語る大河ドラマ“龍馬伝”だが、
グラーバーの記録などでは弥太郎と龍馬の最初の出会いは、
龍馬が暗殺されるほんの数ヶ月前の、
龍馬経営の亀山社中・海援隊の経理を
土佐藩の後藤象二郎に命じられた弥太郎が長崎で担当することになった
維新前年の1867年4月6日が初めてで、
当初はお互いにそりが合わなかったと記されている。

なのに、ドラマでは事実と相当な開きがあり、
これだけ大々的に放映されると、それが史実として定着していく危険性があるから
報道機関としてはまずいのではないでしょうか? 
私は、NHK解説委員長経験者と歓談しながら聞いてみた。
いや、あれは面白く描いたドラマですから!が、答えであった。
 ・・・ん!?

“龍馬の土佐に安馬がやって来る土佐”、
高知県庁のビルに大きな垂れ幕が風になびいていた。
その、まち興し講演は勢いに乗りに乗って、
高知の城下町から100kmも離れた標高400mの山間部にある
四万十川最上流域にある梼原(ゆすはら)町長からも依頼されることになった。
四国の東南端にある室戸岬から、土佐湾の高知市・桂浜を経て、西南端の足摺岬へと
高度一万mの空路を通過する時に見下ろすだけでも、
文字通り、四県が集まった四国、かなり大きい。
近畿以西の日本では最高峰である1982mの石鎚山が眼下の四国山脈にそびえ、
その手前に夏でも雪が降ったみたいに白く見える石灰岩のカルスト台地の山が目に入る。
その山頂の向こうを下りると愛媛県の大洲や松山で、
瀬戸内海を挟んだ彼方には、広島や山口県の本州が霞んで見える。

高知と愛媛の県境山岳部にある梼原の険しい韮ケ峠、
江戸時代の土佐藩領地側だけでも大小16ケ所の関所が設けられ、
人の往来は厳しく取り締まられていたと言う。
その難関の関所をなんとか切り抜けて、瀬戸内海の向こうにある長州藩下関までの400kmを
8日間に渡っての脱出行をした人物、かの坂本龍馬が
27歳で土佐藩を脱藩して峠を越したところが、この梼原である。

脱藩はその場で切り殺されるほどの国を裏切る重罪行為であり、
御家取潰しや親族追放など、極刑を覚悟しなければいけなかった。
だが、不思議なことに坂本家一族には、お咎めの痕跡は微塵も残っていないどころか、
一年も経たないうちに無罪赦免されている。

無名だった龍馬が時代を経た後の司馬遼太郎の作品で一躍誇張されて英雄として登場してくるが、
それまでは日本の歴史に大きく扱われた形跡はほとんど見当たらない。
めまぐるしく世界情勢が変化する幕末においては、
情報に取り残されることは自藩の生死にかかわる重大事であった。
龍馬は元々土佐藩の一諜報員として江戸に送り出されている。

18歳で江戸へ留学したのを皮切りに、土佐へは幾度も往復しているのに、
途中から何があったのか、27歳時にこの期に及んでの
大袈裟にも命のかかった脱藩行為とは理解しがたい。
とは言え、龍馬がそこまでして下関まで行かなくてはならなかった時代の流れとはいったい何だったのか。
幕府への謀反計画である、薩摩と長州を結びつけると言う一触即発の隠密行動は、
万が一にも幕府方に露呈した場合には土佐藩の存在壊滅を意味する大博打である。
安全パイのためには、坂本龍馬と土佐藩は縁を切る必要があった。

梼原が若人の成人式記念講演だっただけに、その日以来気になって色々と調べ始めた。
明治維新の引き金を引いた幕末の立役者たちは20歳代の若者がほとんどだったからである。

1853年に初めて江戸に到着したばかりの18歳の龍馬は、ペリーの黒船来航事件に遭遇。
北辰一刀流の千葉道場に入門、5年間も通ってようやく初等科の免状を貰うが、
それは薙刀(なぎなた)であって、剣豪には程遠い腕前だったと記録がある。

当時は最先端の情報が集まってくる江戸、
若き志士たちが全国の諸藩から押し寄せるように佐久間象山塾に入門。
福沢諭吉も18歳、吉田松陰23歳、勝海舟30歳、桂小五郎20歳、
伊藤博文12歳、高杉晋作14歳、西郷隆盛26歳・・・。
のちのそうそうたる顔ぶれに、ここで接触できたのが、龍馬の人生を大きく変えることになる。
その先生である佐久間象山に言われて
吉田松陰はペリーの黒船に乗って密航を企てるが失敗、
それが原因で長州の萩に幽閉されて、
わずか2年という短期間であったが
明治維新の主人公たちを育てた“松下村塾”で教えることになる。

時は幕末の動乱期。
江戸幕府を倒して西洋諸国へ開国し、議会制の新国家樹立に向かうのか、
はたまた外国勢を刀で打ち払って、旧態依然としたチョンマゲ武士社会を維持していくのか、
自藩の命運を分ける重要な判断時局であった。
下手に動けば自藩は即座に滅びかねない。
現に維新後は徳川300年が消滅し、
情報を制し、情勢を駆使して生き残った薩長土肥の4藩が天下を取ることになる。
勝てば官軍、負ければ賊軍であった。

外国情報と輸入物資の結集点である長崎へは、江戸から船で5日間かかり、
外国勢がひしめく上海までは長崎から直線コースのわずか3日である。
因みに、江戸から大坂まで徒歩で15日かかり、
日本から欧州までは当時の船で片道140日、4ヶ月以上もかかっている。
国内移動で情報を得るよりも、
長崎では上海へ行って外国情報を収集する方がはるかに早かった。

高杉晋作も上海で、スミス&ウェッソンの拳銃を2丁購入して、
その一丁を友情の証として龍馬にプレゼントしている。
龍馬の写真で、懐に手を突っ込んでいるのは、この拳銃を握っていると言われている。
高知・桂浜に立つ銅像は、この写真を元に作られているが、
写真の現物は龍馬の世話をした下関の伊藤家に今でも所蔵されている。

当時は、電話などの通信手段はまだ一切無く、
どこでどう情報漏えいするか分からない飛脚便の手紙のみ、
無事に届くかも分からない暗中模索の魑魅魍魎。
龍馬が頻繁に使った飛脚便の手紙でも当時の相場から言うと、
下関から高知まで瀬戸内海を渡り、一回当たり7万円もしている。
記録に残っているところでは、龍馬が姉の乙女に出した手紙の数から算出しても約2千万円!近い。
脱藩浪人が自己負担できる金額ではない。
乙女は諜報の取次ぎとして使われたと解釈すれば大した金額ではないが。

どの藩がどのように動こうとしているのか、江戸・京都・長崎などでの情報収集は
まさにスパイ合戦さながらであり、一つ間違えば藩主の切腹にもつながる。
不都合なことが起きても無関係だといつでも切り捨てられる脱藩浪人として、
諜報員を国中に潜入させることはどこの藩でも、この時勢では常識であった。

龍馬は土佐の下級武士、正確には郷士である。
長宗我部が支配していた土佐であったが、関が原で負けた豊臣軍に味方したので、
徳川方の山内一豊に支配されることになる。
新しくやって来た山内の家来が上級武士で、
元々いた長宗我部の家来は郷士として下級に追いやられた経緯がある。

坂本家は才谷家の分家、その本家が造り酒屋だったお陰で、
経済的には他の郷士よりよほどましだったと言われている。
龍馬は別名で才谷梅太郎も名乗っている。
郷士とは、チョンマゲと帯刀は許されるが、給料支給は無し、
百姓などをしながら自給自足が原則。
一般の上級武士は下駄を履いて傘をさしても良いが、
郷士はワラジに限られ、傘は禁止、登城はもちろんのこと武家屋敷近辺へ立ち入ることも禁じられ、
上級武士とすれ違う時は端にひざまずいて道を譲らなくてはいけなかった。
上級武士からの切り捨て御免もあったほど身分格差があった。
その犬の糞と呼ばれたほどの一介の田舎郷士が、
こともあろうに日本の大藩であり、一触即発の犬猿の仲であった薩摩と長州を結びつける
薩長同盟に導いたのである。
本来であれば薩摩国77万石家老の小松帯刀や西郷隆盛、
長州藩を代表している木戸孝允などと会えるような身分には、
龍馬は士農工商の封建社会からしても程遠い存在である。
 
高杉晋作が下関で奇兵隊の旗揚げをした場所は鎌倉時代建立の国宝・功山寺。
その高台にある重厚な石造りの長府博物館には
龍馬の直筆で『新政府綱領八策』が残されている。

龍馬と妻のお龍が最後まで活動拠点としていた下関ならではの歴史研究家、
龍馬が使用していた茶碗なども展示してある博物館の古城春樹さんが丁寧に説明してくれる。
江戸幕府に終りを告げて天皇に政権を返し、
議会制の新しい明治政府を作るという大政奉還を含む『船中八策』は、
松平春嶽・福井藩主の家老であり、吉田松陰や龍馬など維新の立役者たちに強大な影響を与えた
熊本の横井小楠の『国是七条』原案による。

龍馬の直筆を良く見ると、
徳川政権を朝廷に奉還・二院制議会政治・身分に関係なく人材登用
世襲的身分制度廃止・軍備増強などと理想の新世界を描いてあるが、最後は、
“○○○自ら盟主となり、これを以って朝廷に奉り・・・”
と、主人公は○三つの伏字で書いてある。
新政府宣言の重要起草文なのに伏字とは実に奇怪である。

三文字を色々想定してみる。
徳川将軍の“慶喜(よしのぶ)公”であれば大政奉還の意味が無くなり、
龍馬の出身である土佐藩主の山内“容堂公”にすれば、
時の権力を手中にしている薩摩と長州が首を縦に振るはずはない。
かと言って最大勢力の薩摩藩主、島津“久光公”だと長州勢が黙っていない。

あえて伏字にしたのは、
この三方の誰もが政局に合せて応用できるように原文を書いたのだろうか。

外様大名として300年間も幕府に恨み骨髄で耐え忍んできた薩摩と長州は、
新政府を作るには慶喜を最後として徳川を根絶するべきだと考え、
犬猿の仲であったその両者を英国の後ろ盾で薩長連合の仲介役をしたのが龍馬。
英国のグラバーは自由貿易拡大を独占阻害する幕府はもはや無用の長物としていた。
同時期、極端に外国を嫌っていた35歳の孝明天皇と、
天皇の妹である和宮の嫁ぎ先、20歳の14代将軍家茂(いえもち)は不思議な突然死で
相前後してこの世から消えている。
天皇と将軍が原因不明の病気で、それも同時期に死ぬなどの出来事がかつてあっただろうか。
1863年に将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、
義兄に当たる孝明天皇に共に外国勢を追い払う攘夷を誓っている。

最後の将軍慶喜に引導を渡す役は、徳川家の忠臣である土佐藩主・山内容堂。
土佐藩にすれば議会制の新政府になっても徳川を国家首班とする温存策を幕府に提示し、
自藩の自己保身と新旧勢力交代でも生き残って発言権のある折衷案を引き出したい、
その“無血革命”を龍馬に命じて伏字にさせたのではないか。
風前の灯となった幕府を一刻も早く武力で叩き潰したい薩長の決意と、
幕府温存を図る土佐藩の間に立った龍馬は立ち往生したが、
それでも穏便な理想論の慶喜延命策である大政奉還にしぶとくこだわっていた。

1867年旧暦11月15日(現在の12月10日)、
氷雨の降る夜9時過ぎの醤油商・近江屋の静かな二階。
奇しくも龍馬33歳の誕生日である。
通りを挟んだ数十m先は土佐藩邸である。

“けんど、けんどと、いつまでも!まだ分からぬか、もはやこれまで、問答無用!” 
龍馬は刀を抜くこともピストルを構える余裕どころか声を上げることもなく
至近距離から二太刀で切り殺された。
もともと、まるっきり正反対の性格で、たびたびの行き違いはあったものの
心を許しているはずの同志、よもやの相手だった。
徳川絶滅、武力革命を過激に説く土佐の陸援隊隊長、中岡慎太郎。

だが、その中岡の背後からは、“ある写真”にまつわる国家的重大な秘密、
その口封じの刺客が刀を振り上げようとしていた。
すでに武力倒幕一色に固まった薩摩藩の、のちの権力者である大久保利通。
孝明天皇が謎の突然死を遂げたときに傍に仕えていた公家の岩倉具視、
この二人が送り込んだ刺客である。

血しぶきが飛び散った近江屋の二階へ、向かいの土佐藩邸からすっ飛んできたのは、
海援隊、陸援隊と土佐藩士の合計21名と記録が残っている。
新撰組などは誰一人として記録には無い。

この暗殺事件が今でも謎とされているのは、
現場に立ち会った誰一人も一切口を開かず、
30数年以上も経った明治33年になってからようやく、ぼつぼつと話を始めることである。

謎を解く鍵は、私の知るところ、一つしかない。
それは龍馬の書いた最後の手紙の一節、
『・・・薩摩藩邸は嫌だ・・・』と書いてあるところである。

薩摩、長州、岩倉、そして土佐藩の後藤象二郎さえも加わっての武力討幕・徳川絶滅派には、
慶喜延命策にしがみつく龍馬は、厄介なただ一人の邪魔者になっていたのである。
龍馬はすでにそれを察知していたに違いない。

京都霊山護国神社山腹から、
龍馬と慎太郎は一緒の墓に並んで、今宵も京の明かりを見ている。
 
「それは私がやった!と我が記憶は言い、
そんなことを私がやるはずは無い!
と我が自尊心は強情に言い張り続け、
結局は屈してしまうのは記憶の方なのだ」 
──── ニーチェ

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