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小説・球磨川―空撮落人伝説〈上巻〉/黒木 安馬

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なぜタイタニック号は沈んだのか!?

豪華客船「タイタニック号」、当時世界最大の4万7千トン、
全長269m(それから28年後の1940年に建造された戦艦大和が全長263m)、幅28m、
最先端の技術を駆使して出来上がったばかりの処女航海で、
多くの政財界著名人や乗組員899人を含む2224人を乗せたまま、氷山に激突して沈没した。
1513人が海水温度2℃に放り出されて水死、
711人が沈没2時間後にようやく救助船に助けられた。

なぜこのような事故が起きたのか?
1912年4月10日にイギリスのサウサンプトンから大西洋を南西に向かって出航して4日後、
ほぼ目的地ニューヨークに近づく手前の、カナダと米国の国境先端にあるニューファウンドランド島沖で、
14日深夜11:40に氷山に激突。
現場は、ラブラドル海流(寒流)と北大西洋海流(暖流)のぶつかり合う所、
世界三大漁場の一つで海霧の多い所としても知られる海である。

私が国際線乗務をしていた頃、ロンドン・ニューヨーク間のJAL定期便が飛んでいた。
世界をリードするアメリカの象徴でもあった当時のPanAmに並ぶ、
JAL悲願の世界一周航路を結ぶ花形の大西洋路線である。
「ブレークファーストはニューヨークで、ディナーはロンドンで!」と、
うたった朝日新聞掲載の日航入社案内を見て、貧乏苦学生の私は、
こんなかっこいい国際的な仕事があるのか!と、大学院に進んで教授になるか、
はたまた世界を舞台に駆け巡る外交官になるかの大きな夢をかなぐり捨てて、
一時期の経験でも良いからと勇んで乗務員になったのであった。
今でも嘘ではないかと信じられないことだが、
SF宇宙映画でも米国のシンボルとして宇宙船にもマークが使われていた、
あの巨大PanAm航空はこの世から消えてなくなり、
そして、ついには日本のシンボルであった鶴丸のJALも倒産零落して
会社更生法の適用を受けているという、時代の激変ぶりである。
この海域上空を通過するたびに、どうしてこんなところで悲惨な歴史に残る大事故が発生したのか
不思議に思って調べてみたことがある。

事故当時の状況は、真夜中、しかも月もない暗闇、波もなく極めて穏やかな海、
霧もなく天気晴朗、快晴で見通しは良かった・・・と記録されている。
最新鋭のタイタニック号は、防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画に浸水しても
沈没しない画期的な新構造になっており、隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。
そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝され、船の構造は現在の技術水準からみても
かなり安全なものであった、と。
 ところが、結果論だが、不運なことが重なっていた。
以下、史料から、抜粋・・・
船の完成が遅れたために、初出航は1ヶ月遅れて4月になった。
1ヶ月前の3月中旬に出航していれば、流氷の量はまだ少なく氷山との衝突事故の発生確率は
少であったと言われている。
次に、出航日においても予定より出航時刻が1時間遅れた。
もし出来事の発生が全て1時間早まっていたならば、
衝突後救難無線を発した時刻が夜中の12時前になり、
周辺に存在していた船舶が無線を聞いて救助に駆けつけることができたと言われている。
出航後、海域における流氷群の危険が行く手の海域に存在するという警告をたびたび他船から
無線で受信していたが、船長はそれほど深刻には受け止めていなかった。
少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。
だが、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、
さらに混線があり近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」からの流氷群の警告も
見過ごされてしまった。
タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、
蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
速力を減速することなく最高速の時速43kmで航行を続けた。
やがて午後11:40に氷山に衝突するが、
見張りが真正面に高さ20mの氷山を肉眼で発見したのは衝突の約450m手前であった。
月のない星月夜の海は波もなく無風の鏡面みたいに静まり返っていたため、
氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった。
タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。
氷山はその10%程度しか水上に姿を現していないので、
見えない水面下の巨大な部分に激突、大破する危険はかなり高いのである。
この夜は月齢26.1の新月に近い暗闇であった事と、
更に、見張り員が双眼鏡無しで見張り台に立っていた。
サウサンプトン港出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま
鍵を持った船員が下船してしまい、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなったため、
周辺の監視を、双眼鏡を使わずに肉眼で行うしかなくなった。
これが致命的な影響をもたらす一因にもなる。
氷山の発見後、全力で後退操作をして回避行動をするが、
停止するまでに巨大船は実に1200mもの距離が必要だった。
船腹をなでるように氷山をかすめて通り、そのため却って船体の多数区画の損傷によって
多量の浸水をもたらし沈没に至ってしまった。
船首部分の激突は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。 
氷山は右舷をこすりながら、船は停船した。
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。
船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、
損傷幅を合計しても1m?程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
だが、右舷船首のおよそ90mにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。
これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、
船首から船尾に向かって浸水が拡大、一方ではボイラーに冷水が触れ、
最も恐れていた危険な水蒸気爆発がおきた。
魚雷か爆弾を落とされたように、船体の側面に巨大な穴が開いてしまった。
ここからの大規模な浸水開始が、致命的となった。
氷山との衝突の後、速やかには救難無線を出さず午前0時14分になって初めて救難無線を発している。
だが、タイタニック号から30kmの距離にいたカリフォルニア号の無線は、
午前零時を過ぎたその時には通信士も仮眠中で、スイッチは切られていた。
午前零時44分には信号灯を打ち上げ、カリフォルニア号の乗組員がこの信号灯を視認したが、
信号灯の意味するところを理解せず救助には向かわなかった。
100kmの距離にいたカルパチア号だけが救難無線を受信し、航路軌道を変更して救助に駆けつけた。
午前2時20分についにタイタニック号は沈没してしまった。
最初の救助船であるカルパチア号が到着したのは沈没の2時間後近い。午前4時10分頃であった。
オンザロックに近い、海水温2℃前後だと、5分前後で人間は体温消失で死ぬと言われる。

私が、アレッ!? と感じたのは、
その事故から100年経っていても同じような事故は全く起きていないこと、
それに、タイタニック以前であってもそのような氷山激突はほとんど記録に残っていないことであった。
速度もあり、直ぐに方向転換できないほどの巨大客船が、
それ以前までは無かったからと言えばそれまでのことだが、気になって仕方が無かった。
その時、コックピット機器パネルにある大きなレーダーを目にして、よもや!と思ったのである。
機長に、レーダーはいつの時代頃から使われ始めたのか聞いてみた。
「え~、知らないの~!?」と機長に驚かれてしまったが、何と、レーダーを発明したのは日本人だったのだ。
 
これも史料によれば、
「アンテナが発明される発端は当時八木教授が所属していた東北帝国大学工学部電気工学科で
行われていた実験にあった。
実験中に電流計の針が異常な振れ方をするので原因を探求したところ、
実験系の近くに置かれた金属棒の位置が関係していることが突き止められた。
ここからこのアンテナの基本となる原理が発見され、1926年に八木の出願により特許権を得た。
教授の八木の指導の下で当時八木研究室にいた講師の宇田が実用化のための研究に取り組み、
1928年に八木・宇田の連名で論文が出された。
だが国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため、日本国外の人々には
“Yagi antenna”として知られることとなる。
日本では日本国外からの情報により八木アンテナが注目されるようになった経緯もあって、
日本国内でも八木アンテナとの名称が広まった。
欧米の学会や軍部では八木アンテナの指向性に注目し、
これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、
陸上施設や艦船はおろか航空機にもレーダーと八木アンテナが装備された。
1940年にイギリスはドイツ空軍の空襲に対する迎撃戦闘で大々的に使用し、
ドイツのイギリス侵攻の阻止に大いに役立った。
ドイツ空軍の空襲に対してイギリス空軍はレーダーを使った防空システムの整備により
有効に対処することができ、この戦いは戦局の分水嶺となった。
また、イギリス空軍は、ドイツ空軍による夜間爆撃に対抗するため、機上レーダーを搭載した夜間戦闘機を
1941年に世界に先駆けて実用化し、ドイツ空軍の夜間爆撃を封殺した。
海上戦闘でも、アメリカ海軍がレーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。
補給路を脅かす潜水艦に対してもレーダーは有効に働き、
連合軍の海上輸送路の防衛に大きな役割を果たした。
こうして、レーダーは戦略上重要な兵器であることを実証した。
一方、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど
暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然と殆ど注目されず、その存在を知る者も殆どいなかった。
そのため1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領した際に
レーダーとその技術書を発見したが、“YAGI”という意味不明の単語が頻繁に出てきており、
例えば「送信アンテナはYAGI空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる」と言った具合に
この技術書の中に至るところにあった単語“YAGI”の意味を解らず
「ヤギ」とも「ヤジ」とも読めるし理解には至らず捕虜のイギリス兵に質問したところ
「…本当に知らないのか?」と、このアンテナを発明したのが日本人だと教えられて、驚嘆したと言われている。
更には後にアメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾にも、最も爆発の領域の広がる場所を特定する為に
八木の技術を用いた受信機能が使われていた事が明らかとなっている。
2010年現在においてもこれほど汎用性が高く、抜群の精度を誇るアンテナは開発されていないと言われる。
なお、この発明は電気技術史に残るものとして1995年、IEEEマイルストーンに認定されている。
八木秀次博士は、東京工業大学学長、千葉工業大学顧問、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長、
八木アンテナ社長、参議院議員、武蔵工業大学学長などを歴任した・・・

 へ~っ、なるほど。
日本人が発明して、逆に日本がハチャメチャにやられる武器として使われた・・・
悲劇というか、喜劇にも聞こえる歴史に、暗澹(あんたん)となり、忸怩(じくじ)たる思いがした。
 で、待てよ! 八木アンテナの発明されたのが1926年と言うことは、
タイタニック号事件の1912年から14年後のことになる。
と言うことは、当時の幹線外国航路といえども、
往来中の船からの無線情報と、艦橋からの目視監視しか前方安全確認の方法は無かったのである。
とりもなおさず、この時にレーダーがあれば大惨事は防げたのである。
タイタニック号が、前方の氷山を肉眼で発見した時点で方向転換するには、
最新鋭の速度と技術の進歩を過信したのが、アダとなって、すべてが遅すぎたのである。

神様はこう言われる。
「人生、お一人様一回限りにさせていただいております」と。
人生にはリハーサルも無ければマニュアルも無い。
ただ、「やり直し」はできないが、「出直し」はできる。
そして、その時に、レーダーに類するより多くの人生参考データや羅針盤があれば、
それが反面教師であっても大いに役立つものである。
上り坂、下り坂と、人生に色々あるが、あと一つの坂、「マサカ」も人生にはつきものであるからだ。

 人類の進歩には、冒険の危険や犠牲があって初めて未来が開けてくる。
先人たちの貴重な轍をレーダーとして、
たった一回こっきりの人生を有意義に過ごしたいものである。