きくたんさんから


お釈迦様は仏教を『法鏡』と言われました。

「仏教は私のありのままの姿を映す鏡だぞ」

と仰言っています。


私たちが普段自己を知る手がかりとしているのは、

多くの場合、『他人鏡』です。


『他人鏡』とは

他人様の目に映れた自分の姿を見ていくということです。


人は自分のことをあれこれと評価します。

「あの人はああいうところあるよね。」

「あいつってこういう人だよ。」

といろいろ言われることがありましょう。


それを虚心坦懐に、掌を加えずに

「ああ、俺ってそういう人間なんだなぁ。」

と受け止めていくのが『他人鏡』です。


ミクシーの紹介文とかは、

この場合適当ではありません。

結婚式の友人のスピーチも

当てになりません。


ああいう場ではいいことしか言いませんし、書きませんから。


紙を配り、匿名で、

筆跡鑑定も出来ないようにして、

「菊谷隆太とはどんな人間でしょうか。

 みなさん、思うところを書いてください。」

と職場のみなさんに書いてもらう。


それを一枚一枚、読んで

「はぁ。。こんな風に思われていたのか。。。。」

と確認していくことです。


さて、この鏡は自分の姿を正しく映し出すでしょうか。
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他人という鏡は自分を正しく映し出すでしょうか。

お釈迦様のお答えは「否」です。


それは他人は自分を評価するときに

どうしても都合という色眼鏡をかけて見るからです。


その人の存在が、

自分にとって都合いい存在ならば

良い人だと思えてきますし、

自分にとって都合の悪い存在だった場合は

悪い人に思えてきてしまうのです。


極端な例と思われるかもしれませんが、

わかりやすい一例を紹介します。


ある一軒家で

主人がテレビを見ていたところ、

居間に強盗が入ってきまして、

包丁で主人を縛り付け、

「おい、金を出せ。」と恐喝した


ちょうどそこに、

たまたまパトロール中の警察官が玄関に入ってきて、

主人と強盗の、その現場にばったり出くわした。


アメリカで『生きる意味』を一から伝えた仏教講師のブログ


主人と強盗は同時に警察官のほうを振り向き、

両者そろって

「あっ!」と驚きの声を上げた。


その時、警察官の姿は、

主人と強盗にとって、

それぞれどのように見えるでしょうか。


主人からすれば、

スーパーマンのように見えるでしょう。

「地獄に仏とはこのことか」と、

警察官を仏のように拝みたくなることでしょう。


強盗からすれば、鬼か悪魔か、

何よりも怖い存在でしょう。

紺色の服に身をまとった、同一人物の警察官の顔が

都合が違うと、仏にも鬼にも見えるのです。


さらに後日談ですが、

この主人、この事件の一週間後、

スピード違反で捕まった。


そのとき覆面パトカーから出てきた警察官が

一週間前、我が家で強盗を逮捕した、同じ警察官だった。


その警察官の顔を見たときに、

今度はスーパーマンのように頼もしく見えるでしょうか。

仏のように慈悲深く見えてくるでしょうか。


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アン・ジュングン(安重根)という人がいます。

歴史の教科書に出てくるので、

ご存知の方も多いと思います。


満州のハルビンで伊藤博文を暗殺した犯人として、

日本の教科書に登場します。


ところがお隣の韓国では、

アン・ジュングンは独立運動の父として尊敬され、

ソウルには記念館もあり、

国民からも『アン・ジュングン先生』と敬愛されています。


日本では要人を暗殺したテロリストなのに、

韓国では『アン・ジュングン先生』です。


一方、韓国における伊藤博文は、

韓国を植民地化した張本人として

極悪人扱いです。


日本では、1000円札紙幣の顔は、

夏目漱石の前はこの伊藤博文だったのです。


アメリカで『生きる意味』を一から伝えた仏教講師のブログ

明治維新の立役者であり、

日本の初代首相であり、

日本に貢献すること大だったということで、

お札の顔になったのでしょう。


もしあなたが将来、1000円札紙幣の顔になったとしたら、

それはよほど日本の国に著しい貢献した場合でしょう。

簡単にはお札の顔にはなれません。


その伊藤博文を暗殺した人が

韓国では英雄です。


韓国はお隣で、

顔も日本人とよく似ていて

映画なんか見ていても日本人の情感に通じる、

親しみの持てる国だと思うのですが、

背負っている歴史が違えば、

国民感情も変わってきて、

都合が変わりますから、

人物の見方もガラッと変わってしまいます。


歴史は「史実」といわれるように、

本来、ノンフィクションでなければならないのですが、

歴史書を綴る歴史家の都合、

その歴史家に書かせている権力者の都合を抜きにして

書き示すことはかないません。


歴史にはたびたび

酒色におぼれて国を傾けた皇帝や

冷血無比で横暴の限りを尽くした独裁者など登場しますが、

本当にそういう人であったのか、

誰がどういう立場として書き残した文献なのか、

注意深く調べる必要があります。