黒木さんから
「100年前の恩を忘れない遠い国の人々」
「本州最南端の町、串本市の上空をただいま通過中です」、
機長のアナウンスが機内に流れる。
「市ではなく、串本町ですよ!」と、直ぐにコックピットに連絡を入れるが、
時速千kmで1万m上空を飛行中、
紀伊半島南端の黒潮に突き出している潮岬ははるか後方にあっという間に小さくなっていく。
1985年3月17日、イラン・イラク戦争が激しくなり、
イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機を48時間後に無差別撃墜すると宣言。
イランに残っていた日本人216名は恐怖におののいた。
日本政府は危険すぎるからと自衛隊もJAL救援機も派遣できないまま、
時間はいたずらに流れた。
ところが、絶望の空に一機のトルコ航空機が姿を現し、
イラン首都のテヘラン・メーラバッド空港へ着陸してきた。
大急ぎでその飛行機は日本人全員を乗せて離陸し、
攻撃開始1時間15分前の危機一髪の脱出劇を成し遂げる。
救援機にすぐ乗務できるように日本でスタンバイしていた我々は、
中東の隣国通しだからそのような芸当ができたのだろうぐらいに軽く考えていたが、
数年後、トルコ大使に会った時に当時のいきさつを聞いて驚いた。
120年前の明治23年、
当時のトルコ・オスマン帝国から11ヶ月もかけて
全長76mの木造軍艦エルトゥールル号が国際親善で日本にやってきた。
3ヶ月の滞在後、
横浜から帰国の途に着いた9月16日夜9時過ぎ、
台風の直撃を受けて疾風怒濤に翻弄された船は、
串本にある日本最古の石造灯台が立つ樫野埼の断崖下にある
魔の岩礁「船甲羅」に激突して大破する。
パシャ提督を始めとする656名の乗組員は闇の大波に呑み込まれて遭難、
50軒ほどある樫野の村人たちが暴風雨の中を深夜の救助に立ち向かう。
フンドシを脱いで帯がわりにして瀕死の負傷者たちを裸で背負い、
60mの絶壁を命がけでよじ登る繰り返し。
貧しい食料を持ち寄って炊き出し、大切な鶏を食べさせ、
言葉も通じないまま懸命の治療を何日も続けて69名の命を救ったのである。
事故から20日後、
日本海軍の「比叡」と「金剛」の二隻は、彼らを乗せ、
村人たちが海底に潜って可能な限り回収した遺品の数々と全国から寄せられた義援金とともに、
トルコへ送り届ける航海に出る。
「本日天気晴朗なれども浪高し」、日露戦争でバルチック艦隊攻撃時の電文で有名になる、
後の連合艦隊作戦参謀海軍中将、
まだ兵学校を卒業したばかりの秋山真之(さねゆき)訓練生も乗船していた。
司馬遼太郎「坂之上の雲」にも出てくる、正岡子規の親友で、元木が演じる役だが、
信号文、太平洋戦争での特攻隊でも使われ続けた
「皇国の興廃この一戦に在リ、各員一層奮励努力せよ!」
も秋山の作である。
この時の国を越えた貴重な体験が、秋山を大きな人間に育てたと言われている。
駐日トルコ大使は言った。
「エルトゥールル号事故での献身的な日本人の救助活動は、
今でも我が国では子供でも知っている伝説です。
私も小学校の歴史教科書で学びました。なぜなのか、
今の日本人が知らないだけですよ。
だからこそ、テヘランで困っている日本人に恩返しをしようと、
わが身の危険を顧みずトルコ航空機は飛んだのです」
串本は、奈良に大和朝廷を作るべく九州日向国から船でやって来た
神武天皇が上陸した熊野地域。
その山深い未知の国で案内役をしたのが、
太陽に住むと神話に言われる3本足の八咫烏(やたがらす)であり、
それが日本サッカーのシンボルになっている。
近代サッカーを我が国に紹介した中村覚之助の出身地だから敬意を表しているのである。
そんなことは知らなくても全然問題はないが、
神武天皇上陸の日が2月11日であり、
だからその日が日本の建国記念日になっていることを知っている人が何人いるだろうか?
世界中を廻ってみて、
これほど自分の国の歴史を顧みない、
子供たちに教え伝えようともしない民族は他にはいない。
自国の文化歴史を否定した時、その国は滅ぶと言われて久しい。
温故知新。
歴史を素直に振り返って学習し、新しき未来への正しい指針とする。
旧西ドイツ大統領ワイツゼッカは、ヒトラーを含めた過去に対してこう言った。
“過去に目を閉ざす者は、未来に対して盲目となる”
