黒木さんから


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「孫の手」と言えば、
背中の手の届かないところを掻くための棒のことで、
気持ちが良いこと、この上ない。
可愛い孫に掻いてもらっている好々爺(こうこうや)のさまを
想像して表現したものであろう。
確かにその先端の形も小さく、五本指状になっているものがほとんどである。
英語では、Back-Scratcher(背中を掻くもの)と言うが、
Grandchild`s-Hand(孫の手)とでも直訳したら「?」である。
 
本来は、孫ではなくて「麻姑(マコ)の手」なのである。
中国の伝説に麻姑と言う女の仙人がいて、その爪はとてつもなく長く、
この爪で背中を一掻きしてもらうと天にも昇る気持ち良さだったとか。
 
万古不易流行とは、松尾芭蕉が好んで使っていた言葉である。
不易とは永遠普遍性で、流行とはその時代の新風体を表し、
根本的には相反するものではなく、
一つの風雅のまことに帰するものだとする考え方を言う。
とすれば時代の変遷とともに言い方が変わって、
孫だろうが仙人だろうが些事にこだわることは無い。

水車は半分が水に浸かっているからこそ、
より強く廻ることができる。


より深く膝を曲げて沈むからこそ、
より高く飛べる・・・二宮尊徳。


彼、薪を背負って読書に励む姿の二宮金治郎は
「天道自然、人道作為」を説く。
田畑を自然に任せて手入れを怠れば、草ぼうぼうになるように、
人間にもそれなりのすぐれた教育が必須であると
自然には善悪がないが、
人道には節制を加えて初めて人となる。
無為自然とほったらかしは、似て非なるもの。

しつけは漢字で「躾」、身体の動きが美しいと書くが
これは中国語には無い、和製漢字である。
教養は歴史に裏打ちされた基本に則って
最低限の素養を身に着けた末に初めて滲み出てくるものなのである。
子供なのだから、したい放題にやらせておけば伸び伸びと育つと
世の習いを何一つ教えないで育てれば、
帰するところ、ただの糸の切れた取り返しのつかない凧にしかならない。

一しか知らないくせに十を知ったかぶりの、
ゴータマ・シッタカブッタ!?でも
何とか通用する主体性のない追従型が多い昨今において、
百を修練体得した上で、
一をも知らぬ振りの出来る奥の深い聡明さは、
いぶし銀の如く崇高な光りを放つ。
金メッキは直ぐに剥げる。
 
吉川英治は言う。「我以外は皆人生の師なり」。
あのようにはなりたくないという反面教師もいるが、
あのような人になりたいという「正面教師」も世に多い。


何でも吸収して己の滋養とするアメーバみたいな貪欲さが、
ガムみたいに最初はそれらしき味があっても直ぐに消えるものと違って、
スルメみたいに見かけは悪くても
噛めば噛むほど味のある人間を創り出す

今の自分の背中は、自分が想って来た通りの
そのままの因果結果でしかない。
人は想ったとおりの人間にしかならないし、なれない。

とすれば、いたずらに世に迎合して曲げてまで生きる必要は無い。
人はその様に振舞っていると、
必然的にその様になって行く。
馬子にも衣装。
まずは高きに目線を合わせた自分創りをしたいものである
わが人生を思いのままに恰好良く、
納得がいくように邁進していく。


誰が正しいかではなく、何が正しいかを見極める眼力


正面教師になるには、これしか無いのである。

ただし、同じ桑の葉を食べさせても、
カイコだけが絹を吐く。

自分がカイコになりきれるかどうか、
それが先決か。
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7/31土曜日13時~

東金 黒木邸

バーベキュー大会


是非ご一緒しましょう