人生お一人様一回限り! "面白くなくちゃ人生じゃない!"で楽しみましょう 


   “明日死ぬかのごとく生きよ、永遠に生きるかのごとく学べ”

人生は、自己責任。
毎朝が新しい自分の誕生日


自分と握手のできる新鮮な日々をお過ごしください 


この世に生まれるまで母親の胎内に「十月十日」⇒「朝」の字になります。
子曰 朝聞道 夕死可矣 (朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)


⇒今の自分と握手が出来る、いつ死んでも構わない充実人生を日々歩め!

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キクタンさんから


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「♪しゃぼん玉とんだ

  屋根までとんだ

  屋根までとんで


  こわれて消えた♪」


よくうたわれる「しゃぼん玉」の

はじめの一節ですね


「生きる理由を教えて」ズバリ示された     親鸞聖人の明答

作詞は野口雨情。

大正九年、雨情は童謡の

全国キャンペーンをしていました。

ちょうど四国徳島にいた時です。


故郷の茨城から

二歳になったばかりの娘が

疫痢(えきり)で急死したという

悲しい知らせが届きました。


愛し子を失った悲しみ、

あまりにもはかなく消えたわが子の

いのちへの愛しみが

この童謡を生んだのでしょう。


雨情は続いて第二節に、

「♪しゃぼん玉消えた

  とばずに消えた

  生まれてすぐに

  こわれて消えた

  風、風吹くな

  しゃぼん玉とばそ♪」


とうたっています。


雨情はこの短い一節のなかに

「消えた」という語を三回も用いています。

幼ない愛し児を失った雨情の悲しみが

どれほど深いものであったか、

うかがえます。



仏教に『愛別離苦』という苦しみが説かれていますが、

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「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。

 自殺ということだ。

 人生が生きるに値するか否かを判断する、

 これが哲学の根本問題に答えることなのである。」

(カミュ『シーシュポスの神話』)


「生きる理由を教えて」ズバリ示された     親鸞聖人の明答

親友が「死にたい」と相談して来たら、

あなたならどうするでしょうか。


あるいは、あなたが「死にたい」と、

心許せる友に相談した時、

どんな答えが返ってきたら、

思い留まりますか。

「死んでしまったら何もかも終わりだ。

 生きていればきっといいことがあるよ。」

と言われても、


「生きていてもいいことが無い」と感じるから

「死んだ方がマシ」と思うのですから、

実は答えになっていません。


やはり、

「生きることには、意味があるのか、無いのか」、

これだけが問題ではないでしょうか。


人生には目的がある、

どうしてもやり遂げねばならない目的がある、

果たさねば悔やんでも悔やみきれない目的がある、


のならば、誰でも死を思いとどまるでしょう。


問題は、明らかな目的があるか、無いかです。

これが哲学の根本問題だ、

とカミュは言いたかったのでしょう。




愛する対象に対する思いが強ければ強いほど、

別離の苦しみは深く、

やるせないものになるとあります。


■ゲーテの戯曲の一場面、

主人公が舞台の中央で言います。

「どうしておれは不幸になってしまったのか!」


舞台の袖から、友人が現れて、答えます。

「それはお前が幸福だったからさ。」


【どうしておれは不幸になってしまったのか!】

【それはお前が幸福だったからさ。】


深く考えさせられる会話の掛け合いでした。


■著書『パイドン』で、プラトンは、

ソクラテスのこんな言葉を紹介しています。


「なぁ、君たち。

 人々が“幸福”や“不幸”と呼んでいるものは、

 何とも奇妙な関係にあるようだね。


 この2つは、同時には、やってこないが、

 一方をつかまえると、

 必ずといっていいくらい、もう一方も、つかまされる。

 まるで、顔が2つで体が一つの怪物のようだ。』


▼結婚しました

▼事業が成功しました

▼出世しました


これらは確かに喜びを与え、

幸福を支えるものに違いない。

が、同時にこれらは、

不幸や涙の源ともなります。


「幸せになろうと必死にかき集めてきたのに!

 実は不幸の元をかき集めていたのか!!」


これほどの皮肉がほかにありましょうか。


キクタンさんから


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【どうして人は別れねばならないのでしょうか。】


愛する家族を亡くした時や、

最愛な人の失恋などに直面した時に

人はそう思います。


仏教では、

『諸行無常』は真理であり、

『会者定離』も世のならいである、

と説きます。


▼会ったならば、

必ずいつかは別れなければらない。

▼生きている人間は、

やがて死んでゆかなければならない。

これは動かしがたい真理だと、説きます。


こう聞けば、「そりゃそうだろう(-з-)」と、

誰もが納得することでしょう。


しかしそれが、

自分の愛する人だった場合は、

別れるという平凡な事実が、

耐え難く、認めがたいものになります。


「どうして別れなきゃいけないの!?」と、

遺体にすがって泣くこともあります。


「どうしても、こうしても、

そうなるのは真理だから、だよ。

手から物を離したら下に落ちるだろ?

それと同じで、真理なんだよ。

どうしてもこうしてもないんだよ。」

ということなのです。


むしろ、

「あの人200歳になるけどまだ死なない。」

そんな人がいたら、それこそ

「どうして死なないの?」

と、身体ゆすって聞きたださなければならないところでしょう。


人は別れる。

人は死ぬ。


3歳の子供でも知っている、

あたりまえの事実ですが、

それが、自分の愛する人に起きたときに、

「どうしてなの?!」

「なぜこんなことに!」

と口をついて出るのが人間なのです。