いやあ~~~

社会経験で

実践で学んできたな~


同じ人は誰一人としていない

一人一人がステキなんだよね♪w

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キクタンさんから

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仏教に「業界(ごうかい)」という言葉があります。

(ぎょうかい)と読まずに

(ごうかい)と読みます。


「業」とは、

インドの言葉で「カルマ」といい、

「行為」のことです。


一人一人、今まで

【見てきたもの】

【聞いてきたもの】

【話してきたこと】

そして何より【考えてきたこと】は、

みな違います。


それら「業(行為)」が各人各別だから、

同じものを見ても、同じには映りません。


夫婦や親子といっても、同じ屋根の下に住んではいても

生まれ育った環境は違うし、

経験や才能も違います。


「自分の全てを理解してくれ」

と相手に要求し合ったら、

もうすでにこの落語の口げんかそのものとなりましょう。


【自分の頭のなかにある主観的な思いこみ】で、

現実の判断を曇らせることはいろいろ聞こえますし、

自分の中にも相当あるのを感じます。


▼店のものがなくなると、

まだ犯人が決まったわけではないのに、店長が決めつめて

「だから外国人をバイトに雇いたくなかったんだよ。」

と口にする。


▼B型に振り回された過去を持つ人が

「血液型がBの人は彼氏にしないほうがいいよ~。」

と友人にアドバイスする。

(ちなみに私、B型(^_^;))


▼ダメ男に貯金もほとんど渡してしまい、それでもなお

「うん、でも彼、最後はお前だけだって言ってくれたことあったし。」

と目が覚めない。


赤いサングラスをかければ世の中は赤く見え、

青いサングラスをかければ世の中は青く見えます。


過去の経験や環境のフィルターを通してしか、

世界は見えません。


一人一人が各々の業界に住まいしているのです。


そのお釈迦様のお話を聞いている人の中でも、

砂地に水がしみこむように真剣に聞く人、

涙を流して感動している人もあれば、

反発する人、居眠り半分で舟をこぐ人、

無関心で途中で席を立つ人、いろいろあったのです。


お釈迦様は一つのことをひとつの言葉で仰っていても、

聴衆は一人として同じ経験、学問、才能、環境の人はありませんので、

受け止め方はみな変わってくるのです。


「手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 

        茶店の女中は 返事する」


奈良の鹿公園、猿沢の池のほとり、

一軒の茶店の前である人が手を「パン」と打つ


鹿は「銃声か」と驚き、びくっとする

魚は「餌か」と寄ってくる

女中は「注文か」と返事する


同じ音を聞いていても

まったく受け取るものは違います。


経験、環境、教育、習慣、男女、これら十人十色なら、

どうしてぴたっと同じ価値観がもてましょう。


異なる世界に一人一人が生きているのです。


一目見て、ビビッときた(☆。☆)

目と目が合ったときに、落雷が落ちたような衝撃、

そのときから恋におちた。。。そんな経験。


そんな人を運命の人、といいますが、

その運命は神や霊が引き合わせたのではなく、

己の業によると仏教では説かれます。


一目見ただけで好きになる、

から一目ぼれというのですが、

実は一目ではないのです。


というのは、

過去にその人と声がそっくりな学校の先生がいて

優しくしてもらった、とか

あこがれていた漫画のキャラクターに

どこか表情が似ている、とか、

そう思わせた「何か」が

好きになった本人にあるからです。


時計の音も、

金持ちは、"チョッキン、チョッキン、チョッキンせい"と聞えるが、

貧乏人には、"シャッキン、シャッキン、シャッキンどうする"と

催促に思われる。


その人その人を取り巻いている世界は、

その人の業が生み出した世界なので、

「業界」と仏教ではいわれるのです。

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本気の時ほど

情熱はそのままで

肩の力をぬくこと

それが相手に自然に

伝わるコツです