育つ環境
そして民度
歴史や考え方の基盤が
影響を与える
影響と環境
使命とリーダーシップとチームワーク
「人生は3つの知恵(見たり聞いたり試したり)で
まとまっているが
多くの人は見たり聞いたりで
一番重要な試したりを殆どしない」
本田宗一郎
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Takaさんから
日本の方の中には、アメリカ人をして「アメリカ人は、自己主張をする人が多い。それはアメリカの教育が、個を尊重し、自己主張するような教育をするからだ」と考えている人が多いようです。
先日も、わたしのコーチングの生徒から同様の質問がありました。
実は何を隠そう、わたしもアメリカに移住する前は、同じように考えていたものです。
でも、15年近く暮らしていると、そして子供たちがアメリカの学校に行くようになって、アメリカの実際がわかるようになってくると、わたしが勝手にイメージしていたものが、どうやら違うということに氣づいたのです。
子供をアメリカの学校に行かせているわたしの目から見たアメリカの教育ですが、この教育方法で自己主張する人を育成できているか?といえば、わたしははなはだ疑わしく思っています。
なぜなら、アメリカで日本以上に「自己主張しなさい」というような教育はなされていないように思うのです。
むしろ、昨今の日本の方が「個が大切。もっと自己主張しなければならない」と教えているように思えてなりません。
そもそも、同じアメリカ内でも教育方針は学校でそれぞれ違うし、かつ教師によっても独自の教育方針をもっていますからね。
なので一概に、アメリカの学校が全体よりも個を重視して、自己主張できる人材を育てているとは思えません。
また、教師のレベルは、残念ながら一般の公立校は、非常に低いといわざるをえません。
それと、アメリカでも全体(他人)への配慮を教えることの方が多いと思います。
また、子供たちをみていて、学校の教育によって彼らが自己主張をするように育っているかといえば、そうではなく、家庭生活の中で成長するにしたがい自分を主張することを覚えているように思います。
授業参観もこれまで実際に数回訪れて教育現場を観てみましたが、やはり、自己主張できる子供を育てるための特別なことをしているかといえば、そうではありませんでした。
実際に、アメリカ人の多くは、人前でスピーチをするのを恥ずかしいと思うようです。
日本の方がイメージしているアメリカ人の外交上手、スピーチ上手、堂々とした振舞いというのは、ステレオタイプのものであり、大半のアメリカ人とは異なります。
もちろん、そういう人もいるにはいますよ。
でも、それは日本でも同じですよね。
まぁ、どちらかといえばアメリカ人のほうが、人前で堂々と話せるタイプの人の割合が多いとは思います。
それからスピーチが上手な人だけをみれば、やはりアメリカ人のそれのほうが日本人よりも上手だと感じます。
特に国際政治の舞台での政治家の振舞いをみれば、アメリカの政治家のほうが日本の政治家よりも、立ち居振る舞い、スピーチが堂々としていますね。
また、それは政治家だけでなく、経済界、芸能界、スポーツ界でもいえるでしょう。
では、そういう国際舞台でどうして日本人が目立ず、立ち居振る舞いが堂々として見えないのか?
それは、語学という要因もあるでしょうが、それ以上に日本人の中にある1つの価値観が大きいと、わたしは個人的に思っています。
しかも、その価値観は、本来の意味とは異なる形で、つまり誤解されて受け取られていて、それを正す必要があるのではないかと思っています。
では、その日本人が世界の舞台で堂々としていない、個の輝きを失わせてしまっている価値観とは何か?というと。
それは、「恥の文化」だと、わたしは個人的に思っています。
ただし、誤解しないでくださいね。わたしは正しい意味での「恥の文化」は、すばらしいものだと考えています。でも、どうもわたしたちの多くは、この「恥」という言葉の意味のとり違いをしているように思えてならないのです。
説明しますね。
わたしたち日本人が「恥」という言葉を、文字だけでとらえたとき、直観的にイメージするのは「恥ずかしい」という意味合いではないでしょうか。
そして、わたしたちはできるだけ「恥ずかしい」という想いをしないように心がけますし、また世間もそれを軽蔑するような考えがあるように思うのです。
例えば、教育の現場でこういうのがよく見られます。
先生が「この問題、誰かわかる人?」と尋ねると、生徒はわかっているにも関わらず、手を挙げるのを躊躇します。
その理由は「たぶん答えはこうだと思うのだけれど、もし間違っていたらどうしよう・・・」と考えるのです。
それから「手をあげて答えること自体が恥ずかしい」という考えもあります。
こうした考えは、「恥ずかしいことをしてはいけない」という価値観から生まれます。
それは、「恥ずかしい」が、人とは違うことをしてはいけない。人より目立ったことをしてはいけない、間違ったことをしてはいけない。それは、恥ずかしいこと=やってはいけない誤りだという考えに立脚しています。
それから、先の例で、実際に手をあげて答えたことが間違っていた時、周りの反応はどうかというと。
他の生徒は間違った答えを言った生徒に対し、笑います。
なぜ笑うかといえば、「間違っているのに、手をあげて答えた」「手をあげたことで、目立つこと(人と違ったこと)をした」ことへの非難です。
根本にそういうことをしてはいけない、つまり目立つこと(恥ずかしいこと)をしてはいけないという考えがあるからです。
それと、教師が間違った答えを言った生徒に対して、ちょっと皮肉ったコメントを返すことがありますね。これが、手をあげて積極的に答えるという生徒の意思をくじかせる要因になってしまうと思うのです。そういうことがあると、そういう考えがますます生徒間に浸透していきますから、教師の方には氣をつけていただきたいです。
こういうとき、アメリカではどうかといえば、教師は「Good try(惜しいな。でも、よい発言だったよ)」と言います。
他の生徒たちは、間違ったことをまったく問題にしません。間違った答えを言った生徒を嘲笑することは一切ないのです。
これは、教育として「教えている」ものではなく、アメリカ社会にある価値観からきているものです。
間違った発言をしたとしても、そういう態度をとらなければならないと教科書で教えていません。それは逆の意味で日本でも同様ですよね。
家庭で、教育の現場で、社会生活の中で、そういう価値観が普通になっている文化があるということです。
日本では「恥」という文字を「恥ずかしい」と連想付をしてしまっているため、本来持つ意味を正しく理解せず、現在のような積極性を損なう文化をつくってしまっているように思います。
わたしはつぎのように考えます。
本来の「恥」とは、自分ができることであるにも関わらず、それを自発的に行動することができないこと。
つまり、その「行動を起こす勇氣をもたない」こと。
また、自分の信念を他人が非難することに対して、恐れない勇氣をもたないこと。
それを「恥」と思うことが、本来の「恥の文化」です。
また、周り(他人)に対して「恥」と思うのではなく、自分自身に対して「恥」と思うことなのではないかと思うのです。
「恥ずかしい」などと矮小なレベルのものではなく、ずっと高潔な信念を貫くゆるぎない勇氣をもつプライドこそが、本来の「恥の文化」にある価値観なのですね。
テレビ番組で、サムライがプライドを傷つけられたと言ってすぐに怒ったり、逆に切腹したりというのは、まさしく「恥ずかしい」という誤った価値観であり、それをマスメディアを通して、わたしたちは誤解してしまっているように思います。
本当のプライド・・・高い精神性をもった考え、価値観、人格を、わたしたちは再認識するのも、これからの世界の中の日本という位置づけの中で大切なことだと思うのです。
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ただ好きなことをするのではなく
するべきことを好きになれば
必ず上手く行くでしょう
