聖書の成り立ちを語る都市 | Libentina

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ダニエル書

ギリシア文化の影響を聖書に及ぼす人物となるアレクサンドロス大王は地中海と近東を征服し、ギリシア文化を、当時ペルシアの属州イェフド(後のユダヤ)の中心地エルサレムにの垂らした。

前323年 アレクサンドロスの急死→ディアドコイ(後継者)

プトレマイオス1世 エジプト支配 ファラオ:エルサレムとユダヤを統治(大祭司を選ぶことを許され、ある程度の自治を謳歌できた)

前199年 パネイオン(聖書ではフィリポ・カイサリア、現バニアス)の戦いで、シリアのセレウコス朝がプトレマイオス朝を破る→エルサレムに対し、ヘレニズム化強硬策

アンティオコス4世エピファネス(前215-164)圧政・宗教弾圧

→ギリシアの思想、宗教、哲学、言語を持ち込んだだけではなく、供え物、割礼など伝統的なユダヤ教の宗教儀式を禁じる。→保守派ユダヤ教徒達の反乱、マカベア戦争→ユダヤ人独立国家:ハスモン家

ギリシアの東地中海沿岸支配、特にアンティオコス4世の行いについて直接言及するダニエル書

ギリシアのセレウコス朝による征服を歴史ではなく、預言として語る、巧妙な年代記になっている。133

 

アレクサンドリア図書館

ヘブライ語聖書の蔵書がなかった。→

前3-2世紀にかけてユダヤ教はますますヘレニズムの影響を受けるようになっていたが、ユダヤ人の歴史や宗教思想の記録を世界的名著に加える価値があるとは考えられていなかった。ユダヤ教徒がギリシア語で読み書きするようになって、学識あるユダヤ教徒の書紀(律法学者)たちが、徐々にヘブライ語へ翻訳するようになったらしい。

この翻訳が今日「七十人訳聖書」と呼ばれるもので、ローマ数字のLXXで略記する。ヘブライ語の聖書の正式ギリシア翻訳版をつくることは、このギリシア語版がたちまちエジプト。パレスチナ一帯のユダヤ人にとって標準版聖書になったという点で、重要な意義があった。

アリステアスの手紙

 

 

第三マカベア書

アリステアスの手紙は、ギリシア文化とユダヤ文化がいかに多くの共通点を持ち、共生できる(すべき)かを示そうとしたのに対し、第三マカベア書は唯一神を崇拝するユダヤ人のハイアタ的な態度のせいで、ユダヤ人がいかに嘲笑と迫害の標的にされているかを描く。したがって、アリステアスの手紙はユダヤ人がギリシア人を信頼するよう説得する努力のもとに書かれているが、第三マカベア書はギリシアに抵抗しても神が守ってくれることをユダヤ人に示すために執筆された。183

 

出エジプト記32:33

わたしに罪を犯したものはだれでも、私の書から消し去る。

ここでの神の書に名前が書かれると「救われる」という発想も、古代近東で定着した共感呪術や書き物の神霊力の伝統に深く根ざしている。195

 

将来ヘブライ語聖書になるテキストが集められて、書き記され、その最古の版として編集されたのはペルシア時代のことだったのだ。現代におけるユダヤ教の起源はペルシア時代にまで遡ることも可能なのである。この時代にエルサレム神殿が再建され、ペルシアの後援のもと再試食がユイツの宗教的権威として隆盛した。ダビデの血を引く王はペルシアから赴任した総督にとって変わられたが、それでも、ダビデ、ソロモン、ヒゼキア、ヨシアといった古代の王たちの記憶と、油を注がれた王、真のユダヤ教のメシアを指導者とするユダの栄光は、ユダヤ人の脳裏からいつまでも消えることはなかった。油を注がれたダビデの血を引く王の長きにわたる不在の結果、ユダヤ教は転移向かって、イスラエルの栄光を取り戻す新たなメシアを求めるようになった。206-207

 

死海写本からわかることは、写本作成者は聖書の異なるテキストの伝承を有していたか、自分の裁量で自由に言葉を代用したり書き換えたリシタということだ。何れにせよ、前1世紀から後1世紀にかけて、「神の言葉」を作り上げる言葉は幾分流動的で、、一部の人が信じたがるように固定化していなかったことは明らかだ。236

 

ベニヤミン族

サウルとダビデの対立の話を聖書が語る理由は、古代イスラエルにおけるベニヤミン族(とサウル王)からユダ族(とダビデ王)への権力の以降をこのましく思っているか。…聖書の編者は、神が嘔吐してサウルを退け、ダビデをこのんだ理由を付け足したかった。249

 

3世紀中葉、イエスが磔刑に処せられて200年以上が経っても、依然として教会はどの書が権威と見なされるか論議を続けていた。同じ書をめぐって、数多くの教会教父が各々の自著で合い反する意見を発表した。[……]

初期キリスト教の教義が正典からではなく、人間つまり初期教会教父から生まれたことを示しているからだ。キリスト教徒は何を信じるよう求められるのか、教会教父が議論を重ね決定した末に、正典が誕生した。したがって、「神の言葉」(すなわち聖書)が、キリスト教徒に何を信じ、どうふるまうかべきか教え導くという考え方は、歴史や現実には見合っていない。実際はあべこべで、「神の言葉」を構成する内容を決定したのは初期教会の優れた人々だった。い1世紀から2世紀初期の文書の一部をもとにして、こうした人々がキリスト教徒のために教会の規準を定め、すでに発した教令に矛盾しない書を選定して、正典を作り上げた。283