今夜は、サロンネタでも、仕事ネタでもなく

一個人としてのブログです。これまで、

私的な話しは、一切非公開にしてきました。

ただ、コロナウイルス肺炎によって

偉大な志村けんさんが、お亡くなりになって

昨日、朝のワイドショーの速報 

志村けん 死亡 のテロップがまだ頭から離れず、芸能人が亡くなって泣いたのは、初めての事です。志村けん70歳 という文字もこの1週間
テレビや、ネットニュースで見ました。

私の亡くなった母親と同じ歳なのです。
昭和25年生まれ。 70歳かぁ。私の母の年が60代でストップしていたので、とても驚きました。
もうそんな年月が?!母は、志村けんと同じ年なんだよ!和田あき子もだよ!と、子供の時から
聞いてきました。ドリフターズがとても好きで
ゲラゲラ笑ってたのを、子供ながらに記憶にあります。 母と私は同じ干支もあり、とても
お互いに気性が激しく、中学生の時は
母を怒鳴りつけて、喧嘩して、部屋のふすまを足で蹴っ飛ばし、穴を開けた事もあります。
とにかくよく喧嘩しました。思い出は、喧嘩なのですが、やはり、母親は、社会人になった私をいつまでも、心配してました。家に帰れば、
好きな鳥のからあげ。ポテトサラダが必ず出てきました。確か、エステ会社に勤めていた時の
真冬に、実家に泊まりました。朝には
お弁当がありました。 30過ぎた私に作ってくれたのです。そんな優しい人でした。
温泉が大好きで、年に2回は、行きました。
今思えば、もっと帰ったら良かった。
後悔しかありません。 病気になった。
聞いた時は、手が震え、妹からの声があまり聞こえなくなりました。 初期だよね?
いや、。進行癌だよ、。
耳鳴りがしました。 だから、検診に、、なんで?と思いました。けど、切れば治ると、
何故か思っていて、入院前も、実家に帰り
家族で、笑ってました。 一緒に病室まで行き、
明日ね!と笑って実家に帰り、翌朝、手術に
立ち合いを家族みんなで見送り、待ってました。
父親、妹だけは、不安な顔をしていたのが、なんか気になりました。私だけ呑気に、終わりましたよ!無事に全部取り切れました!を
先生から言われると、ずっと思っていたし、
そこまで、酷い癌なら手術しない。と
思っていたからです。 終わりました。と、
先生の部屋へ家族みんなで行き、話を聞きました。全部摘出はまずしました。しかし、
お腹に癌細胞が、4つありました。これです。と、何やら水のボールの中に黒いつぶつぶが、浮いてました。父親が、持ってどれくらいですか、、??持ってって??意味がわからなくなりました。ステージ4.の3の末期になりますが、
退院後、抗がん剤に入りますから、気を落とさずみたいな話しでした。五年生きた人もいますし。など、気休めが聞こえてきました。
妹は、ささえなきゃ、歩けないぐらい号泣してました。まだ31歳です。その後、家族会議が、小さい病院の部屋を借りて話しました。妹は、もう可愛そうなぐらい泣いて泣いて、フラフラでした。
とにかくお母さんには、無事に終わったよ!
安心してね!を目覚めたら話さなきゃならない。で、話し合いが終わりました。しかし、
私、父親以外の家族は、泣いて目が真っ赤。
じきに目覚める母親には会えない。

私と、父親だけ、病室に入りました。
ゆっくり目を開けた母親が、どうだった?。
私が大きな声と笑いながら、大丈夫だったよ!!
良かった!問題ないよ!
あーー良かったやーと、小さな母の声が聞こえました。みんなは?言うから、お弁当買いに行ったからすぐ来るからね!と、話しました。
ドアを出たら妹は、泣きじゃくりたいのを堪えてなんとか頑張ってました。

その夜は、妹と、2人でベッドの横で
ずっと一緒にいました。

退院は、すぐでした。家に早く返してあげたいのもあったと思います。

その後、再発まで3か月でした。
その間、私が実家に帰ったのが3回。。
2回目の時は、お盆でした。
抗がん剤で、味覚障害で、味が変かもだけどと、
カレーを作ってくれました。
さすが、味見なしでもいつも通り美味しいカレーでした。その次は、9月頭です。
泊まらないで帰るの?泊まってったら?
あまり言わない母が言ったのが今でも頭から離れません。ブドウをお土産に、くれました。
カレイの煮付けもありました。
それが、母との最後の家で過ごした半日でした。
それから、わずか、10日後、容体の悪化で、
再入院。余命宣告がされました。

話しより早いよう?
なんで???
1番泣いたのは、亡くなった日、仮装の日、
お葬式の日より、余命宣告を、父親からメールが、きた時の夜です。
一晩中泣きました。そこで、全ての涙を使いました。後は、本人にわからないようには、どうしたら?を話し合いました。
父は最後まで話さない。決めていました。
私も妹も、同意見でした。しかし、外科病棟は、個室で、私達も泊まれますが、治療がメインなので、痛みを取るのも限界なのです。
一回だけ、腸閉塞にならないようにと、
抗がん剤を点滴。一番苦しい吐き気を見ました。
明確にはいつだったかは、記憶も遠いのですが、
私が泊まりの日で、夜中にいきなり、母に、
おねいちゃー、ん、母さんダメなんだべ?
正直に教えてけろ。頼むから。大丈夫だから。
辛い顔が見えました。小さく頷いてしまいました。そこで、全てを理解したのだと思います。
痛いの嫌だから、痛くないように頼んでほしい。が、希望でした。私は父との約束を破ってしまったのです。いつか、謝らなきゃならないといつも思います。夫婦にしかわからない
母の性格。  私はうかつに、母の言葉に頷いてしまった。そこから、みるみるうちに、悪化していき、元気もなくなりました。急ぎで緩和ケア病棟にお願いして、大きい個室に移動しました。
そこからは、治療がかわり、
眠るような様子が増えました。夜中に気持ち悪くなり吐く事も増えて、妹、私、父で、交代制にして、母を1人にしないように毎日病院へ誰かがいました。話せなくてもそこに母が寝てるだけで、
私は楽しかったし、不謹慎ですが、旅行にも、大人になり、行ったことがなかったから、同じ部屋で寝るのが、楽しかったのです。
妹とも、沢山話しました。
仕事仕事を、最後の1か月だけは、
母といました。 

まだ書きたいことありますが、未だに私が悩んでる時は、夢に出てきます。料理をしてる母親が、いるのです。笑ったりも未だにあります。

私は45歳 母が45歳のときは21歳
1番迷惑を、かけた歳だな、、。

また、喧嘩したいし話したい。

まだまだ思い出にはできない

寂しい。からあげ食べたい。笑いたい

歌も好きでした^ ^

最後に、父親には、いつか謝りたい。
そう思っています。