必要事項は唯一家族の揃う夕飯の時にテーブルに視線を落としたままの父からぼそぼそと伝えられていたので、翌日昼過ぎにエミコ叔母さんが家に現れても僕 は驚かなかった。ありえないと思いたいくらいにエミコ叔母さんの大きなお腹にだけびっくりする。そして、いつのまにか赤ん坊でなくなってるエミコ叔母さん の息子、僕のいとこのショウタくん。うちのリビングに五人は多すぎた。母は急にそわそわし出し、実の妹や夫、息子を置き去りにして自分の家をいそいそと出 て行った。わかってる。母には変化が受け入れられない。
 エミコ叔母さんはまたかって顔をしただけで、父はなにも言わず、僕にはなにかを言う権利すらなく、小さなモンスターだけが一人で走り回ってる。
 せっかく親戚が来たのに自分の部屋に閉じこもってるのも失礼だろうと思い、あらかじめリビングのすぐ横のダイニングテーブルの上に用意しておいた教科書やノートの前に着いた。
 エミコ叔母さんは僕がそうするだけの間に「大人しくしなさい」をなん度言っただろう。
 父は、母が必ず冷蔵庫の中に作り置きしてある冷えたお茶を自分とエミコ叔母さん、ショウタくんの分だけ出した。僕は横目でそれを確認し、空気になりきる役を続ける。
「うっわ、なつかしい味。お姉ちゃん、まだこの麦茶作ってるの? めんどくさくて私なんてペットボトルのお茶を宅配してもらってるのに。ある意味感心するわ」
 覚えている限り、エミコ叔母さんはエミコ叔母さんだった。誰にも裏表のない態度を取る。それは大きくもないし、もちろん小さくはないんだけど、正直さと いうスパイスが利いていてとてもこの人を魅力的にしてくれている。本当にいい人とはこういう人だと思う。ものごとをきちんと言える人。僕はこっそりエミコ 叔母さんが好きだった。
「ほら、その、外に働きに行ってないからね……」
 父は、今では同じ身になったことを苦に思ったのか、語尾を濁した。
「それで、ちゃんと病院には行ってるの?」
 話題の主は外出してる。だからこそできる会話かもしれない。エミコ叔母さんが言う『病院へ行く』というのは比喩で、頭のおかしいのを治す努力はしてるのかと聞いている。たとえ遠回りでも、そういうことにちゃんと対面してくれる人がいるのはありがたい。
「いや、その……。色々あるだろう、近所の目だとか」
 見なくても父がちぢこまってるのが伝わってくるようだった。
「これ以上悪くなりようないでしょ。今はいい薬とかあるらしいわよ。ちゃんとしてくださいよ、心配なんだから。最近は? ひどくなってない?」
「大丈夫だよ、本当に。なにもない。ちゃんと家のこともしてる。買い物にも一人で行って帰ってくる。近所の人とだって挨拶くらい交わしてる。本当になにもないんだ」
 そもそも、そのなにもなさが問題なんだと父は気付いていない。
「なにやってんの?」
 テーブルの向こう端から、黒くてつるりとした小さな瞳がひょっこりとのぞいた。なるほど、リビングには飽きたらしい。
「別に」
 僕は書いているふりのノートを閉じた。
「なにやってんの?」
 同じ質問。けどさっきより口調が強めだ。
「別に」
 僕も同じように強く同じ言葉を返した。
「なにやってんのー?」
「──」
 降参だ。僕はシカトを決め込み、教科書を広げる、この小さなまだ教養をたたき込まれていない目に漢字はどう映るのかなんて知ったこっちゃなかった。
「おにいちゃんの邪魔しちゃダメよ!」
 声だけが飛んでくるが、それ以上の助けはないようだった。
「聞いてよ、お義兄さん、ショウタったら、クラスメイトを鉛筆で刺したのよ」
 エミコ叔母さんはまた隠語を使ってる。僕にはわかる。息子の行きすぎた行為に殺意はあったのか? そしてそれは遺伝するのかという心配も含まれている。
 父はなにも答えられなさそうだった。
「どうしよう。学校になん年も前のことが知れ渡ると思う? 転校しなくちゃいけなくなる?」
「関係ないだろう……」
「父兄の間で、この子の叔父が殺人で刑務所に入ってるって知られたら、関係あるとは思わない?」
 エミコ叔母さんは興奮してるのか声が大きくなる。ぶんぶん言って自分を飛行機だと思って走り回る子どもがいたら声くらい大きくなるのかもしれない。
「オジサンがなに? サツジンってなに?」
 この場の空気がどんなに悪くなったのか読まなくたっていいんだから子どもはいい。
「ショウタくん、僕の部屋でお絵かきでもしない?」
 僕はすくっと立ち上がって教科書をまとめた。
 たぶん、耐えられなかったのは僕なんだ。この子は知らなくてもいい。嫌でも大人になったら知るだろう、自分の血縁者の罪を。でも今じゃなくてもいい。
 エミコ叔母さんは僕に半分、わびるような目を向けてた。
「わーい、おにいちゃん遊んでくれるの?」
 よかった、彼は数秒前の自分の発言すら忘れていそうだ。
 小さな手を引いて、僕は自分の部屋へ彼を入れた。こうなるかもしれないと思って用意しておいた画用紙と色鉛筆にショウタくんはすぐに気を取られてくれて、うまいこと静かになってくれる。
 リビングから大きなエミコ叔母さんの声が聞こえてくる。今度は女の子でよかったとか、刑務所へ面会に行ったとか、なん年かぶりに訪ねてきたにしても、言 いたいことは言ってる。話が急に僕のことになった。「とても大人しい」と表現された。悪くない。でも、僕が大人しいことで余計に叔母さんは自分の息子が心 配なんだ。母の一家の血を継ぐ男どもはみんな凶暴で、暴れまくってて悪者だったら諦めもついただろう。それなのに僕だけ例外で。もう死んじゃったけど、お 母さんのお父さんはひどい飲んだくれだったらしい。あまりいい話は聞いたことがなかった。
「おにいちゃん、誘拐されたんだってね」
 いきなりのゲストの言葉にいつもの平静さを忘れそうになる。
「え、ああ、うん」
 僕も床にしゃがんで、適当な絵を描き始めた。
「痛いの? 苦しいの? 怖い?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「だって僕も誘拐されるかもしれないし」
「大丈夫、ショウタくんはされないよ」
 すくなくとも、僕と姉を誘拐し、姉を殺した犯人は刑務所の中だ。
「殺されない?」
「殺されない」
「じゃあどうしておねえちゃんは殺されちゃったの?」
 愕然としていると、ショウタくんは絵を描き終えたようだった。丸と棒で描かれた、人間が首を吊ってる絵。黒一色。
 この子が産まれたかそのくらいのことを、直接知ってるはずがないんだ。ということはどこからか情報を得ているということになる。どうして放っておいてあげない? ──違う。どうして僕を放っておいてくれない?
 絵の人間は、首を吊られている。窒息死だ。姉の死因までこの子は知ってるんだ。
 心配そうな顔したエミコ叔母さんが僕の部屋へ現れる。こっそり首吊りの絵は取り上げてベッドの下へ隠していたので見られることはないだろう。替わりに僕が描いていた桜の絵をショウタくんのほうへ向けてまるで今までその絵を描いていたんだというように仕立て上げておいた。
「あとどのくらいで産まれるの?」
 僕は、お絵かきになにもトラブルはないよとばかりに差し障りのない質問をしてみた。
「予定一ヶ月後。今度は女の子なのよ」
「そうなんだ。女の子のほうが生命力強くて育てやすいっていうよね」
「どうだかね、生命力強すぎだし、ショウタが。──最近、上手くやってる?」
 話題が急に変わった。もしかすると僕の非行の少しでも知りたくてたまらないのかもしれない。昨日、万引きしたことはただ巻き込まれたことだったから、黙っておきたかった。
「楽しいよ」
 さらりと答える。嘘じゃなかった。
「私たち、親戚って数えるほどしかいないでしょ。協力していかなくちゃ。なにか困ったことがあって、お父さんやお母さんに言いにくかったら遠慮なく私に言うのよ、いい?」
「ありがとう、エミコ叔母さん。エミコ叔母さんも困ったことあったら僕に相談してきていいよ」
「まあ、ずいぶんませた口きいて。でも、そうよね、十六ってけっこう色々わかってる年頃よね。ありがたく受け止めておく。お姉ちゃん──お母さんをよろしくね」
 わかってるとうなずくと、叔母さんは部屋を出て行った。
「僕ね、お兄ちゃんになるんだ」桜の絵を台無しにしているショウタくんが顔を上げる。「妹ができるんだ。だからね、僕、強くならないといけないんだ。妹を守ってあげないと、お兄ちゃんなんだから」
「そうだね、ショウタくんならできるよ、守ってあげられるよ」
 自覚のない嫌味ほど心に刺さるものはない。僕は守れなかったよ、僕のほうが歳が二つ下で身体も小さかったけど。姉のことを守ることはできなかった。これでいい? 認めればいい?
 僕も桜の絵をめちゃくちゃにするのを手伝った。