学校はいい。家にいなくていい口実だから。そこまでに到る、踏まなくてはならないマンホールは大きな課題だったが、制服は僕をただの学生にしてくれるし、学校という属していていい場所があるのは、家族という小さな単位より心地よかった。大いなる安心感だった。
 しかし、どういうわけか二日目で僕は放課後に校長室へ呼ばれるという事態に陥った。なにかヘマをしでかしたんだとしか思えない。下唇を噛みながら、校長室のドアを叩く。
「入りなさい」
 今どき見かけなくなった真鍮の丸いドアノブを回し、僕は言われたとおりにする。今までなん人が怒られるためにここへ入ったのか、そしてそのうちのなん人が無事に出られたのか。おかしな考えが僕を支配したが、にこにことした校長の表情に僕の緊張は少しほぐれる。
「どうかな。もう友達はできたかな」
 座りなさいと指さされた椅子へ無言で僕は腰を下ろす。友達なんて作ろうと思ってなくて、あののっぺらぼうたちと仲良くなりたいなどとちっとも思えないことは素直には言えなかった。
「ヤナギダくん、君はデリケートな問題を抱えているね」
 なるほど、本題に入るらしい。確かに僕はちょっと悲劇的に見える過去を持ち合わせてる。僕は目を上げず、校長との間にある大きな古めかしい机の木目に目を走らせていた。
「誰にも、君みたいな体験をしたことのない者にはわかり得ないことだと思う。──実の叔父さんに、妹さんと誘拐されて、数ヶ月監禁されてたんだね?」
「──姉です」
 僕は唯一の間違いを正した。
「ああ、すなまい。お姉さんだったか。お姉さんは誘拐犯の叔父さんに──」
 校長は言いにくそうだったので僕が続けた。
「姉は殺されました。僕は多少の栄養失調程度で助かりました。僕はその間のことを、意識が朦朧として覚えてないんです。もう六年も前のことですし」
 過去をほじくられるのはいい気がしない。でも僕は狼狽えることなく淡々と述べていた。
 校長の指が、机の上で左右せわしなく組み替えられている。わかってる、この人だって好きでこんな話しをしているわけじゃないんだ。ただの事実確認なんだ。
「そんなことがあっても、君は非行に走ったりせずに、家族を大切にしてうまくやってるようだね。偉いよ。テストの結果もとても良かったんだよ。学校は君をとても誇りに思う。そしてとても期待しているよ。それを伝えたくてね」
 絶対に叱られるに決まってると思って入った部屋でそんなことを言われるとは思ってもいなくて。用意ができてない僕は、不意の言葉に目頭を押さえにかか る。見られたくなかった。褒められて泣くなら、叱られてなくほうがマシだった。でも、涙は溢れ出て、情けない嗚咽まで漏らしてしまう。さりげなく差し出さ れたティッシュを僕は一気に三枚も使った。
「嫌なことを思い出させてしまったかな。悪かったね。そういうつもりじゃなかったんだよ」
「わ、わかってます。ただ、僕は──」なんだってんだろう? 学校が温かく迎えてくれることを知ってホッとした? 他人の口から同情の言葉が出てきてびっくりした?
 ちらりと校長に目を向けると、この人の壇上でのスピーチを急に思い出した。そしてそれに集中することで泣いていることを忘れようとする。
「昨日の、本当ですか?」
 僕があまりにもアバウトに聞きすぎたため、校長の眉間には記憶をサーチしにかかったらしきしわが寄った。慌てて僕は言葉を足す。「あの、夢が叶う場だって、この学校が」
「ああ」しわが消え、眉毛が上がる。「ちゃんと聞いてくれる生徒がいたとはな。来年はもっと真面目なことを言わなくちゃならないな。そう、夢は叶うよ。でも、言ったようにポイントをためないと」
 校長はそれがまるでどこかのお店でオマケでくれる景品のような言い方をした。それだけあっさり簡単に言い切ってくれたってことだ。僕は少し呆れる。
「それって、努力を惜しむなってことですよね?」
 ゴミ箱が見つからなかったので手の中でティッシュを丸め、こっそりポケットに突っ込む。
「別に努力なんてしなくたって」
 大げさに校長は手を広げて見せてる。
「でも──」
 それじゃ不公平だ。
「言い換えよう。楽しいと思えることは努力かな? 努力に感じるかな?」
「たぶん、それなら好きなことをしているという意識しか働かないかもしれません」
「そう。わかってきたね。で、君の好きなことは? 楽しいと思えることはなんだい?」
 聞かれたことにすぐに模範的に答えられると信じ切っていた自分が、瞬き三回分、答えを出せずに口をぽかんと開けたままになってる。自分のことはなんでも 知ってると思ってた。いつでも客観的に物事を見ようとしてたし、そうしてきたつもりでいた。それなのにちょっとした楽しみごときが思い浮かばないなんて、 なんて失態だろう。とっさに悪い思いが横切る。僕はこの学校を失望させただろうか? あるべきものを答えられず、失格しただろうか。
 自分でも青ざめているのがわかった。校長が答えを待っているのがわかると余計に。
「難しい質問だったかな? でもなにかあるよね、小さくても日々楽しくしてくれることとか、ものとか。なにか楽な気分にさせてくるものとかが──?」
 ああ、見つかった。僕は安心する。マンホールだ。