帰り道、マンホールを踏むと気が落ち着いて、姉の墓も、姉の墓をランドマーク呼ばわりした上級生のことも忘れ去っていった。でも、そういうプロセスにしたいだけで、本当は違うストーリーがある。
 僕の目はせわしなくマンホールを見つけにかかり、通りすがりの人に怪しまれないようこっそりマンホールに近づいていってそれを足の下に収める。
 一つ。うまくいっていた過去を忘れる。
 するとまたマンホールを見つけずにいられなくなる。視界にないとわかると焦って冷や汗が流れてくる。心の中のすべてが溢れ出し、それが僕をなにかに変えてしまいそうになるから。
 やっとのことでマンホールを見つける。ほっとする。あと数歩。近づいてくる。そして踏んだ。一瞬の達成感に、重荷を一つだけ捨てる許可を自分に与える。 墓の存在? 姉の死? あの上級生にするか? ダメだ、迷いは罪だ。だから今のはなかったことになる。せっかく踏んだマンホールを一つ無駄にしてしまっ た。大丈夫、次がきっとある。自分に言い聞かせ、次のマンホールで消すことを決めてから、踏みにかかった。
 本当はそうやって、家に帰り着いた。自分をどこかごまかしていた。そうしないと家という存在も僕には重すぎ、同時には受け入れられないからだ。

 家では日の高いうちから全員が集合していた。定年を迎えた父はここ数日いつ見ても、昔に買ったカメラのレンズを拭いていた。もう汚れなどありえないだろ うと思えるくらいに磨いて磨いて磨きまくっている。たぶん、仕事以外の趣味のなかった父には今、やるべきことが見あたらないのだろう。それとも父にはまだ 汚れが見えているのかもしれない。もともと会話らしきものがなかった仲なので、父のそんな姿を見ても僕は口をつぐんでいた。
 それというのも、父は母より全然マシに見えたからだ。母は姉が今でも生きていると信じてる。僕には見えない空気の塊に声をかけ、余るはずの食事を作り、汚れないはずの部屋のシーツを毎日取り替える。彼女は自分を計画通りにしておくことで正気を保っているようだった。
 この家にはそういうルールがあって、だから、僕は家族としゃべるのがおっくうになった。