東京45年【11】アフリカ、アラスカ、アンデス | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【11】

 

 

1980年初夏から夏、東京、アラスカからアフリカへ

 

 

その後、夕暮れの東京タワーに登った。

 

その時、茂子はとても怖がった。


渡辺さんと会うまでに時間があるので東京タワーに行った。

 

中学3年の時に慶應志木高校を受験に来た時に横浜の叔父さんに連れて来て貰って以来だった。


『高いところダメなの』


初めて知った。

 

また一つ茂子の事がわかって嬉しくて抱きしめた。

 

俺にはまだそんな幼さがあった。


茂子は中学の修学旅行以来だと言った。

 

登ってから茂子はうるさかった。

 

富士山が見えるとキャーキャー言いながら、あとは何で騒いでいたのか良く覚えていないが、怖いと言ったのは何だっのかと思うくらい、とにかく恥ずかしくなるくらい騒いでいた。

 

そんな茂子を見るのは久しぶりだった。可愛くて綺麗な茂子を抱きしめてキスをした。


そこから六本木まで歩いた。

 

初めて六本木に来た。

 

茂子は何度か来ていると言った。


歩いている人に青山への行き方を聞いて歩いて行った。

 

青山墓地を通り抜け、渋谷まで歩いた。

 

楽しかった。

 

幸せだった。


池袋には1人で行くと言ったが、茂子は付いてきた。

 

 

 

 

待ち合わせの喫茶店に行くと渡辺さんから話し掛けて来た。


『島谷君だよね?』


『はじめまして。よろしくお願いします』


渡辺さんの顔は登山雑誌で見ていたのですぐにわかった。

 

39才で俺と同じ誕生日だった。

 

情熱的に山の話をする人だった。

 

もう1人女性が来た。

 

田部井順子さんだった。

 

世界の女性で初めてエベレスト登頂を果たした人だった。


渡辺さんの話は黒部の衆へ入会してくれと言う事だった。

 

竹中さんもいる事もあったのですぐ了解した。


高田馬場とインドの連絡先を伝えた。

 

渡辺さんはひとしきり話してから茂子に話しかけた。


『田口から聞いてるよ。芯の強い可愛い子だってね』


『可愛いって嬉しい』


『そこじゃないだろ。今日こいつハイなんです』


『可愛いじゃない』と田部井さんも言った。


『ほらっ!』と茂子。


『すみません。ところで田部井さんのご主人は山の事何も言わないんですか?』


『私の幸せはあの人の幸せだと思っているから何も言わせないのよ』

 

その後、田部井さんから妊娠3ヶ月の時に女性として初めて谷川岳一の倉沢衝立岩を登ったと聞いた。

 

俺は妊娠3ヶ月がどんな体調なのか分からなかったが、とにかく凄い人だと感じた。


楽しく山の大先輩と話が出来て嬉しかった。

 

 

 

 

高田馬場に戻ってご飯を食べてマンションに戻った。


茂子といつでも一緒だった。

 

下北沢にいた時は貧乏で何処にも行く事が出来なかった。

 

二人共バイトをしなければ暮らせなかったから一緒に居たのは狭いアパートで小さな布団の中だけだった。

 

1年3ヶ月前までの生活が今は大きく変わって豊かになっていた。

 

そして二人の愛も大きく豊かになっていた。

 

変わらないのは広い部屋に住んでいるのに相変わらず小さな布団で抱き合って寝ていた。


翌日、起きると茂子が


『はい。これ』と袋を渡された。

 

中を見ると小さなペンダントが入っていた。

 

ペンダントは2つに割れて中を見ると二人の写真が入っていた。


そして『誕生日おめでとう』と。


俺の誕生日だった。

 

忙しかったのに準備してくれていたと思うと嬉しかった。

 

付き合って2年なのに茂子の誕生日に一緒にいた事はなかった。

 

1年目は深夜の土方工事のバイトをしていた。

 

2年目はヨーロッパのマッターホルンを登っていた。

 

俺の誕生日は1年目はヒマラヤを登っていた。

 

付き合って2年目で初めて一緒に誕生日を迎えた。

 

嬉しかった。

 

茂子を抱きしめてキスをした。

 

熱い熱いキスをした。

 

思えば昨日はしゃいでいたのはこれだったのかと思った。

 

付き合い始めて初めて二人の誕生日が迎えられると思って、ウキウキしていたんだと。

 

 

 

 

茂子に感謝したくてお洒落に贅沢をしようと言った。

 

茂子は喜んだ。

 

早速、新宿丸井に行って服を二人分買った。

 

茂子はミニスカートにブラウス、上着、コート、靴を買った。

 

俺は白いコッパン、セーター、白い靴、ジャンパーを買った。

 

確か30万円くらいだったと思う。

 

 

 

マンションに帰って、京王プラザホテルのレストランと部屋を予約した。

 

着替えを済ませて、途中で早稲田で有名な饅頭を買った。

 

新宿西口から京王プラザホテルに向かいながら二人で褒め合った。

 

『つかさもちゃんとした格好をするととても素敵よ』と茂子が言った。

 

そんな事を言う茂子は薄手のトレンチコートが似合っていて大人びて見えた。

 

とても綺麗だった。

 

京王プラザに着くとチェックインカウンターであの初老のホテルマンがいた。

 

挨拶をして饅頭を差し出した。


『今日で二十歳になりました。もう大丈夫ですよね?』と言った。


『おめでとうございます。今日はご予約を頂いてますでしょうか?』


『はい。ですが、あの日に泊まった部屋のランクがわからなくて…』


『空いております』


『お願いします』


キーを渡されて


『メインダイニングはどう行けば良いですか?』と聞いた。


『ご案内します』


と言って案内して貰った。

 

さらに、レストランの責任者らしい人と何やら話をして


『当ホテルで夜景の一番綺麗なお席をご用意致しました。

 

ごゆっくりお楽しみ下さい』と言って帰って行った。


二人共感激したが、初めてフォーマルな場所に来たので二人共勝手がわからず緊張した食事だった。

 

 

 

 

気持ちもお腹も満腹になって部屋に行くとあの日と同じ部屋だった。

 

嬉しかった。
 

1215号室、茂子の誕生日だった。

 

デラックスダブル。
 

部屋に入るなり、窓際で夜景を見ながら激しくセックスをした。

 

そしてゆっくり風呂に入りながらも、ベッドでも。。。満ち足りた時間が過ぎて行った。


それから10日程友達に会ったりしながら、新学期の大学の手続きをしてアラスカに向かった。
 

 

 

 

5月下旬マッキンリー6194m南西壁登頂。
 

パートナーは竹中さんだった。
 

マッキンリーは先住民の呼び名は『デナリ』、『偉大なるもの』である。
 

また一つ茂子に近づいた。
 

そのまま竹中さんとニューデリーに向かう。
 

インドヒマラヤを登り、ヨーロッパに行った。
 

ヨーロッパアルプスの明峰を数々の未踏ルートから登った。
 

そして南フランスコートダジュールから漁船に乗り、チュニジア、エジプト、ケニヤを経由してタンザニアに着いたのは7月中旬だった。
 

大きな山があった。
 

湿原を抜けジャングルを越えて、太古の頃から変わらないアフリカを登る。

 

南半球は冬。北半球の寒さと違う様な気がした。


北壁の氷のクロワールを抜けて雪の着いた岩壁を登る。

 

そして岩壁は氷壁になり切り立つ稜線に立った。


苦しい登攀だったが、信頼出来るパートナーが一緒だったので不安はなかった。


8月初旬、キリマンジャロ5895m北壁クロワール初登攀。


キリマンジャロはスワヒリ語である。


『輝く山』である。

 


茂子、愛してる。

 

 

 

 

そこからインドに戻る。
 

エジプトカイロ、フランスパリを経由してニューデリーへ。

 

支度を済ませてネパールカトマンズに空路入ったのは8月下旬。

 

日本隊に合流。
 


チョモランマ8848m北壁初登頂。
 

支援隊に参加。

 

 

北アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、ユーラシア大陸と駆け巡りニューデリーに帰ったのは11月上旬になっていた。
 

 

 

 

この時にニューデリーの店でポーランド人と出会った。

 

Bartosz Sapir、パルトシュ・サピア。

 

2才年上だった。

 

優れたクライマーだった。

 

彼の彼女はApolline Dubois アポリーヌ デュボア。

 

同じく彼女もクライマーだった。

 

パルトシュはポーランド人だった。

 

明るい気の良い奴だった。

 

彼とは後にヒマラヤを二人で登った。

 

2つの山に行った。

 

呼び名はパトと呼んでいた。

 

彼は俺の事を『タイ』と呼んでいた。

 

しま、ひで、つかさ、どれも発音し辛そうだった。

 

だから『タイ』になったが、ポーランド語の発音のせいか、『タイ』が『ター』と聴こえた。

 

 

 

アポリーヌはフランス人、シャモニーの生まれだった。

 

アポと呼んでいた。

 

こちらは物静かなフランス美人だった。

 

彼女は日本語の通訳をしていた。

 

二人はこの後に結婚した。

 

ヒマラヤのポカラの外れの山の麓で、俺だけが立会人になって結婚式を執り行った。

 

幸せそうだった。

 

それから二人はポーランドのパトの実家に暮らしていた。

 

だが、数年後に国連保護軍に参加したパトはサラエボで死んだ。

 

内戦だった。

 

迫撃砲で死んだ。

 

俺には連絡が無かった。

 

と言っても、早稲田の山岳部に連絡が入ったものの、誰かがメモを紛失してしまっていた。

 

毎年、来るはずのクリスマスカード来なかった年があった。

 

その正月にポーランドに電話をした。

 

そこでアポからパトが死んだことを知らされた。

 

ベルリンの壁が壊され、ドイツの東西統一、その後ソ連崩壊、直後にユーゴスラビアは国内紛争が勃発した。

 

当時のポーランドは、ソ連時代の法律に従っていた。

 

その法律は外国人が永住権を取得した場合、国外に住むことを禁じていた。

 

但し、受入れ先の国で受入れ人が居れば国外に出られた。

 

そして、混乱したソ連崩壊に伴い国内はインフレの影響から貧困に陥っていた。

 

電話をした時にアポは『明日から街に立たないと生きていけない』といった。

 

俺は外務省の先輩にお願いして受入人をフランス国内に求め、ポーランドに飛び、アポとその子供2人をアポの故郷シャモニーに連れ出した。

 

今もシャモニーで元気に暮らしている。

 

 

 

 

話を元に戻す。
 

店の事を済ませてすぐに日本に帰った。

 

茂子に会いたかった。

 

成田から高田馬場に直行したが、先にマンションに着いたのは俺の方だった。

 

熱い風呂に入っている時に茂子は帰って来た。
 

『お帰りなさい』
 

『ただいま』
 

『大変だったんじゃない?』
 

『会いたかった!』
 

『一緒に入る?』
 

『今日は止めるわ』
 

この一言で何か不安がよぎった。
 

 

 

 

翌日、時差ボケもあって疲れていたが、大学に行った。

 

今期初の授業を受けて昼休みに部室に行った。

 

みんなに土産話をしていると緒方漣が来た。

 

3月に会って以来だった。
 

『お前。。。』と言って口ごもった。
 

『なんだよ?』
 

『あとで話そう』と言っていなくなった。
 

授業が終わって近くの喫茶店で緒方漣と会った。
 

『体が大きくなったな』
 

と豊沢が違う人を見る様に言った。
 

『胸囲と足が太くなったかな?』
 

『それと自信が付いたのか、それと態度もな!』
 

『そうか?』
 

自分ではわからなかったが、言われて思い当たる節もあった。

 

昨日の茂子の態度だった。

 

腕枕をして寝た時に胸板が厚くなったとか、足が太くなったとか言っていたが、何か嫌な事があったのかと聞かれた。
 

『お前、良くないよ』と緒方漣が言った。


その日の夜、茂子は智子のアパートに泊まった。

 

 

 

 

田口さんに電話をして会って下さいとお願いした。

 

朝日新聞社は築地にあり、そこまで行くと言うと、歌舞伎座の近くの小料理屋を指定された。

 

とても落ち着いた雰囲気の店だった。


『どうした?焦った顔して』


『俺、変ですか?』


『いきなり何だよ?』


事情を説明すると、なるほどと言った。

 

暫く無言で俺を見つめた後でこう言った。


『少しばかり経験したからって、いい気になるなって事だろうな』


『そんな風に見えるんですね?』


『お前はお前のやりたい事をやっている。価値のある登山をしてもお前はその価値を考えていない。いや、気付いてもいない。純粋にやりたいだけだ。自己満足の中で一人勝ち誇っている様に見えるんだろう。俺が行けなかったその上の高みを目指せよ!そうすりゃあお前のファンは納得するよ』


『わかった様なわからない様な。。。』


『ところで、次は何処だ?』


『ペルーアンデスのワスカラン東壁です』


『あそこをやるのか!』
 

 

 

 

マンションに帰る前に茂子のお母さんに電話した。

 

週末に行く約束をした。

 

茂子には内緒にして欲しいとお願いした。


2、3日、茂子とは何事もなく過ごして週末の土曜日に上田に行った。

 

着いたのは午前中だった。

 

お母さんに事情を話して、どうする事も出来ないがどうしたら良いかを聞いた。


『茂子と離れてみたら?』とお母さんは真剣に言った。


『それは…』


『嫌でしょうけど、どっちにしろ島谷君は山に行くんでしょう?それでも茂子との将来の事を真剣に考えている。でもこのままではもっと悪くなると思うのよ。将来どうなるかわからないけど、それをはっきりさせる為には離れて本当に必要かどうか試すべきよ』


『このままでは将来は無いと言う事ですか?』


『可愛い娘だから私も一緒にいて欲しいけど、あの子は疑問を持つとそれを追求する子だから、そうしている内に自分がわからなくなるのよ。でも島谷君は茂子のそんな事をわからなくてもいつも傍にいてくれた。その頼ってた相手に疑問を持ってしまったから余程の事をしないと茂子は自分の事を見失うわ』


『わからないです。どっちにしても弟さんが東京に来ると離れる事になるので今じゃなくても良いんじゃないですか?』


『そんな外的要因ではダメよ。自分の意志で動かないと答えは出ないわよ』


『考えてみます』


『あんな子でごめんなさいね。でも茂子が強くなったのは島谷君のおかげよ』


『強くなるのも考えもんですけどね』と言うとお母さんはケラケラと笑った。


茂子の天真爛漫さはお母さん譲りだった。俺もつられて笑ったが、どうするか迷っていた。

 

 

 

 

午後遅くに高田馬場のマンションに戻った。

 

茂子が大学に提出する書類を書いていた。

 

就職活動の為の書類だった。

 

青田刈りは禁止と言われている時代だったが、大学は有名企業への就職率アップだけを追求していた。


『ただいま』


『お帰りなさい』


『どこ行ったの?』


『ちょっと…』


いつもなら追求するはずなのに何も言わなかった。

 

俺の悪い所かも知れないが、隠していると悪い事をしている気になってしまう癖がある。

 

それが信頼していればいる程言いたくなる。

 

沈黙は金とはいかないのである。


『どこ行ったと思う?』


『お母さんとこ!』


『なんでわかるの?』


『わかるわよ。そのくらい』


『じゃあ、なんの話でとかも?』


『だいたいね。で、どうしたいの?』


『一緒にいたい』


『嘘つき!』


『山だけは違うけど、素直なつかさは信頼している人の言う事をそのままやる人だから』


『離れたいの?』


『つかさと同じよ。離れたくないけどその方が今は良いと思う』


『なんでこうなるんだろう?離れたくないのに離れるっておかしくない?』


『どうなるかはわからないけど、賭けよ』


『賭けたくないよ。ずっと一緒にいたいのに』


『つかさらしいわ!山に自分の命は賭けられるのに私には何も賭けない。賭けてるのかも知れないけど今はわからないの』

 

 

 

 

翌日から上井草の寮に戻った。

 

もうすぐ茂子の誕生日だったが、それを待たずに飛行機に乗った。

 

手紙とプレゼントをマンションのポストに入れて成田に向かった。

 

空港に向かうリムジンバスの中で、きっと茂子はバックとスーパーの買物袋を持ったままで、エレベーターの中で手紙を読んだだろうと思った。

 

成田空港で竹中さんと落ち合い、ロサンジェルス経由ペルーに着いた。

 

 

 

 

このロサンジェルス空港でニュースを聞いた。

 

12月8日、ジョンレノン死去。

 

俺は小学校5年生の時にラジオから流れていた『Let it be』を覚えているが、残念ながら俺はビートルズ世代では無い。

 

ロサンジェルス空港で乗り継いだ飛行機の中でビートルズを俺より知っている世代の竹中さんが悲しんでいた。

 

中学から大学時代までオンタイムでビートルズを聴いていたと言った。

 

 

1月末、アンデスワスカラン6768m東壁初登攀。


茂子、愛している。


でもあいつは俺の心のどこにいるのか、どうすればいのかわからなくなっていた。


茂子の事が見えなくなっていた。