LGO日記 -76ページ目

熱海旅行記 ~その2~

これまたお久しぶりです。信谷です。


荒牧に続いて熱海旅行記など書いてみます。
それでは2日目、と見せかけて
時は少しさかのぼり・・・


1日目川田号編。


そもそもは5月公演『せいぎのみかた』から思いついたと思われるこの

「あなた、ご飯にします?お風呂にします?それとも・・・あ・た・み?」旅行。

愛知から直行のらっしーを除く参加者8名は
東名高速横浜青葉IC付近に集合した。
ここから2つの車にわかれて目的地を目指す。


はるばる栃木から駆けつけてくれた川田号に乗り込んだのは
主宰、小松、そして私。


運転手とは長年の相方という私が当然助手席へ・・・。
大学時代に幾度となく2tトラックを劇場まで運転した
運転手・助手席コンビが今ここに復活したわけである。


すると、どうなるか・・・。


ノンストップフリートーク開始。
大学時代の話とか、マニアックな話とか、
その場で思いついたまま声に出しちゃった話とか。

もちろん何の免疫もない後部座席が
そんな脳直垂れ流しトークついてこれるはずもなく。


尚、BGMは
・dis-
・Welcome!2000
・ギャラクシーBang!Bang!
・forフルーツバスケット
・残酷な天使のテーゼ
・ハレ晴れユカイ
などなど。


つけ入る隙も無ぇ・・・。


そんなこんなで後部座席との心の距離を
超高級リムジン並みに離しつつも
私たちは無事到着したのでした。


伊東に。



・・・って熱海じゃないし!!

熱海旅行記 ~その1~

皆様お久しぶりです、荒牧直子です。

3連休の中日も終わってしまいましたね、如何お過ごしですか?

私は今日は下北沢にお芝居を観に行ってきました。

何気に下北でお芝居見たことがあまりないことに気付きました・・・ショック!



さてさて、余談はさておき本題に入りましょう。


先週になってしまうのですが3連休の最初の二日を使って『LGO熱海旅行』が決行されました。

参加者は主宰・信谷さん・さきさん・五十嵐さん・森木さん・井上さん・川田さん・小松ちゃん・私の計9名。

川田さんと井上さんが車を出してくださいました。


しかしさすが3連休の初日、道がすごく混んでいましたガーン

午前中に出たにもかかわらず宿に着いた時は18時を回っていました。

ドライバーのお二人、お疲れ様でした汗


宿は井上さんが手配してくださったところで、二部屋を続きにしてくださっていました。

と言うことで豪華なお夕食です。



舟盛とかあったんですけど昼食を食べたのが遅く、後部座席でぐでーっとしていただけの私はお腹が空いてなくて色々残してしまいました・・・・すみませんしょぼん


夜はもちろん宴会ですねアップ

温泉に入って女性陣は貸していただいたかわいい浴衣を着て敷いて頂いた布団にごろごろしながらの宴会はとても楽しかったですドキドキ

女性陣の浴衣写真がないので・・・代わりに男性陣のオヤジ・・・・失礼しました、寛ぐ姿をご覧下さい。

イメージが崩れたファンの方、ごめんなさい得意げ



うわ~、こんな写真載せやがってプンプンとか怒られてしまいそうですねあせる

ということで一日目はこんな感じでした。

二日目はもっともっとてんこ盛りです。

それはまたの機会に・・・・・・・・・・・・・・誰か他の人が書いてくださるに違いない得意げ


それでは、拙い文章で失礼致しました。

荒牧直子でした!

奥州会津・新選組紀行 第二回

奥州会津・新選組紀行

第二回 「忍び寄る謎の人影! ~三番組長・斎藤一の墓~」

JR会津若松駅から南に一駅

JR只見線七日町駅のそばに建つのが阿弥陀寺だ。

戊辰戦争で命を落とした旧幕府軍の兵士たちが眠る「東軍墓地」がある。



私は、如来堂から自転車をこぎ進め、この阿弥陀寺へとやってきた。

その目的は、―もちろん、東軍兵士たちの冥福を祈ることもあるが―、ここにあるといいう新選組三番隊組長・斎藤一の墓に参るためである。

写真の、向かって右が本堂、左の木立に囲まれたところが東軍墓地。

この東軍墓地は散っていった兵士たちそれぞれの墓が立ち並んでいるわけではない。

厚い柵と堅い門扉に囲まれたところに、「戦死者」と書かれた大きな墓標が立っているだけである。

門扉には錠がかかり、中に入ることはできない。

私は、斎藤一の墓を探した。

(この扉の向こうにあるのか?)

目を凝らして見てみたが、それらしきものは確認できない。

(少し離れたところにあるのかな?)

辺りを見回しながら、柵の外を歩いていくと、東軍墓地のちょうど裏手に、ごく普通の一般的な墓石が建てられていた。

「藤田家之墓」とある。

(あ、これだ!)



これが、正真正銘、斎藤一の墓である。

はてさて、どうして斎藤一が「藤田家之墓」に入っているのだろうか?

実は、斎藤は何度か改名をしているのだ。

本名は、山口一。新選組(壬生浪士組)入隊時には、斎藤一と名乗り、その後、(伊東甲子太郎派から復帰した時点か?)山口次郎、さらに、明治に入ってからまたまた改名し、その名が藤田五郎。

だから斎藤一の墓=藤田家之墓ということになるのである。

それにしても、大正まで存命した斎藤一が東軍墓地のすぐそばに埋葬されているとは。

改めて考えてみると、実に興味深い。

「一緒に戦った仲間とともに眠りたい」という彼の想いが伝わってくるようだ。

(よし。みつけたぞ…。ん?)

そのとき、不意に携帯電話が鳴った。

森岡主宰からのメールだ。

「会津いいですねぇ~」と書いてある。

私は、すぐさま主宰に電話をかけ、

「今、斎藤一の墓の前にいます!」

とかなんとか言って盛り上がっていたのであるが……、一方で、背後から忍び寄る何者かの気配を感じていた……。

そして、ひとしきりしゃべり終わり電話を切ったその瞬間だった。

「おにいちゃん、どこから来たの?」

声の主は、見知らぬおっちゃんである。

「え? ああ、東京ですけど…」

私は、あえて福島出身であることを隠した。遠方からの観光客を装ったほうが、貴重な情報を手に入れることができるかもしれないと思ったからである。

予想どおり、そのおっちゃんはノンストップで阿弥陀寺のガイドをし始めた。

「そこにあるのが、御三階といって、鶴ヶ城の天守閣にあった櫓をそのままもってきたもので……」

こちらが尋ねなくとも、おっちゃんはどんどん話を進めていく。

おっちゃんによれば、上述の東軍墓地の墓標に「戦死者」としか書かれていないのは、長州人が東軍の戦死者に戒名を与えるのを許さなかったため、そう記すしかなかったからだということらしい。

「ほぉ、なるほど…」

私は、おっちゃんの話を聞きながら、こんなガイドに偶然出会えてラッキーだなあと素直に思っていた。

このような、ちょっとしたエピソードを、地元の人から聞くことができるのは、どんな書物よりも貴重である。

これぞ、旅の醍醐味であろう。

そして、おっちゃんは最後にこう言った。

「近くに、長命寺というところがあるから行ってみな。戊辰戦争のときに、銃弾を受けた土塀がそのまま残ってるから」

「あっ、そうなんですか! ありがとうございます!」

私は、おっちゃんにお辞儀をして、改めて斎藤一の墓に手を合わせた。

そして、こんな幸運な出会いを与えてくれた三番隊組長に感謝した。

が、しかしである!

私の後にやってきた女性に語るおっちゃんの話に、私はこの旅で、最大の衝撃を受けた!

おっちゃんと女性のやり取り、それに対する私の心のツッコミは以下の通りである。

「これが新選組の斎藤一の墓だね」

「え? この人、有名なの?」

「有名だよ! えー、まず、局長が近藤勇、副長が土方歳三、一番隊隊長が……ええと」

(……え? ちょ、ちょっと、沖田! 沖田総司でしょうが!)

「……沖田総司ね。……、それで三番隊隊長が……」

(って、二番隊、飛ばしちゃったよ! 永倉新八、どっか行っちゃったよ!)

「この斎藤一。新選組を作った人だよね。……墓がここにあるってことは、ここで死んだんだろうね」

(うーん、その言い方は、少々誤解を招きそうな……)

「近藤勇はどこで死んだか知ってる?」

「…池田屋?」

「池田屋は違うよ! 近藤勇は……、そうだ、千葉の流山で捕まって、んー、ほら、あそこ、板橋! 板橋で切腹させられたんだよ」

(いや、切腹じゃないから! 斬首だから!)

「それで、土方は逃げたんだよ、九州に」

(いや、北でしょ! 函館でしょ! つーか、九州って敵の本拠じゃないスか!)

とまあ、終始こんな感じだった…。

私のツッコミもかなりマニアックで申し訳ないのだが、観光客に声をかけて、自ら進んでガイドをしている以上、事実誤認の情報を語るのは、いかがなものかと思うよ、おっちゃん。

さっき聞かされた話も、もしかしたら間違いだったのかもしれないのかと思うと、(もちろんそうは思いたくないが)なんとなく残念な気持ちになってしまった。

特に、近頃、新選組ファンになった私にとっては、近藤の「斬首」を「切腹」と間違えてほしくはなかった。

「斬首」であるか、「切腹」であるかの違いは、実は、非常に大きいのである。

このことについては、次回で触れるつもりだ。

とはいえ、旅から戻ってきて振り返ってみると、おっちゃんが新選組のことをよく知らなくても、仕方がないことなのかな?とも思う。

会津人にとっては、戊辰戦争といえば「白虎隊」の悲劇のほうがはるかに有名であるからだ。

そもそも、かくゆう私も会津で新選組が戦ったことを知ったのは最近である。

一方、「白虎隊」のことは、小学生の頃から知っている。

福島県人なら、みんなほとんど一緒なんじゃないだろうか。

皆さんは「白虎隊」のことをご存知だろうか?

「白虎隊」とは会津藩が組織した部隊で、15歳から17歳の武家の少年たちで構成されていた。

彼らは、戊辰戦争終盤に参戦し、戸の口原の戦いに破れ、鶴ヶ城の北東にある飯盛山まで落ち延びたのであるが、そこから、城下町に火の手が上がっているのを目撃する。

悲しいことに、若き隊士たち20名はそれを落城と誤認し、そこで自刃して果ててしまったのだ…。(うち1名が死にきれず、近くの住民の介抱によって、一命を取り留めている)

この白虎隊の悲劇は、会津が破れた戊辰戦争の象徴として、地元の人々に語り継がれている。

飯盛山には隊士19名の墓が立ち並び、今でも訪れる人が絶えることはない。

ところが、新選組はというと、率直に言って、会津では影が薄い感は否めない。

さらに、司馬遼太郎先生の『燃えよ剣』でも、会津戦争のことはまったくといっていいほど触れられていないのだ。

おそらく、会津の人々にとって、新選組は同志ではあるが、あくまで「よそ者」で、特別に興味のある存在ではなかったのかもしれない。

そう考えれば、おっちゃんの新選組に関する知識がいいかげんであったとしても、納得のいく話であるということになる。

おっちゃんにとっては、阿弥陀寺はあくまでも「東軍墓地」で、そこに付随的に新選組で組長をしていた人の墓があるというくらいの認識なのだろう。

でも、やっぱり間違ったことをガイドするのはちょっと……ね。

まあ、こんなふうに、阿弥陀寺は今回の旅にアクセントを与える、思い出深い出来事が起こった史跡だった。

もちろん、いい意味で。

その阿弥陀寺を離れ、次に向かったのが、ここだ。



そう。長命寺の土塀である。

歴史的に価値のある、いいものを見ることができたと、心底から私は思った。

おっちゃん、ありがとう。

次回予告

新政府軍によって、板橋で処刑された新選組局長・近藤勇。

たどり着くことができなかったはずの会津の地に、なぜか彼の墓が建てられていた!

次回「盟友死して、土方、何を思う ~天寧寺・近藤勇の墓~」

絶対、見てくれよな!