戦前の右翼思想家の書いた本を読んでも、ネトウヨの放言ほどには不快感をおぼえない。
理由は簡単で、彼らはレイシストではないからだ。
また彼らは死刑や子供への厳罰を喜ぶ趣味はないし、「他人が得をするのは許せない」みたいなケチな根性とは無縁である。

 

ところで日本の右翼には、いわゆる「日蓮主義」と総称される人々がいる。
北一輝、大川周明、田中智学、石原莞爾等だが、一番ヤバいと思われがちなのが、井上日召である。
そう、血盟団事件の首謀者にして、五・一五事件の伏線を作った言われる人物。日本史上に稀に見るテロリストである。

 

 

現在の宗教右翼は、神道系が多い。
日本会議もそうだし、生長の家原理主義(正統のそれはリベラル化)も大本教の分派である関係上、やはり神道系である。
しかし戦前戦中には、仏教系の右翼も多く居たのである。
日蓮宗が目立つが、真宗系もあった。

 

この日召も法華経を重視する仏教系の右翼、テロリストである。
だが、この本を読むと、拍子抜けがする。
普通の読者は血盟団事件や五・一五事件に関心を持つだろう。
私もそうだった。しかしこれらについては簡単に、サラッとしか触れられていないのだ。
それは「くどくど言い訳はしない」という日召の価値観もあったのだろうが、関係者に迷惑をかけたくなかったというのもあるだろう。
暗殺の犠牲者への批判もほとんどない。
右翼のリア友から聞いたが、右翼のテロは左翼のテロと違って憎悪はないと言う。「お国のために死んでください」と犠牲者に敬意を持ち、墓参りも欠かさない、みたいなことを聞いた。
まあ、犠牲者の遺族にしてみれば、得手勝手な理屈だろうけど、彼らは大真面目で、仏教者たる日召はなおさらだったのかもしれない。

「一人一殺」という物騒な題名な割には、暴力を肯定するような内容ではなく、一殺多生のポワを主張する本でもない。
しかしいやしくも仏教者たる日召が、なぜ殺生の最たる暗殺事件の首魁となったのか?
直接は書かないものの、その背景となった思想の説明はある。

日召は子供の頃から大きな疑問があったと言う。
それは
「桔梗も女郎花も同じ土から生えるのに、なぜ桔梗は紫、女郎花は黄色い花を咲かせるのか?」

リア友のマルクス主義者に話したら、「自然選択された遺伝子のためだよ」と笑っていたが、日召は納得すまいw

それはともかくも。
この命題のどこが暗殺と関係があるのかって? それが大ありなのだ。

およそ宇宙に絶対的な真実はあるのか? もちろんあるが、それは一つしか無い。法身仏、顕教では毘盧遮那仏、密教では大日如来だ。
あらゆる森羅万象、万物はそこから生まれ、そこに還るわけだが、本来そこには善悪は無い。
しかし法身仏から顕現した宇宙には、善悪が生じる。
それは多様性を持ち、それぞれの人間がそれぞれの正義と悪を「知る」。
それは同じ大地から生じた桔梗が紫の花を咲かせ、女郎花が黄色い花を咲かせることと同じである。
桔梗は紫を正義と知り、女郎花は黄色を正義と知る。そして人は、それに殉じるべきなのだ。
もちろん人は自分の色を「知る」に当たって、そこに私利私欲があってはいけない。利他行(他人の利益のため)でなければならない。お国のため、弱者のためでなければならない。
いずれ桔梗も女郎花も枯れる。枯れてしまえば、どちらも土に還り、法身仏の懐に返る。


もちろん仏教徒たる私は途中までは賛同出来る。
けど結論には全く納得出来ない。
なるほど日召は紫を貫いたのかも知れないが、勝手に散らされた黄色の立場はどうなるのだ?
殺された團琢磨も信念の人間だった(蟹工船の時代の資本家故にそれに同調するかはもちろん話しは別だが)。
真実である法身仏は究極の慈悲でもある。その法身仏が花同士の殺し合いを望まれるわけが無い。
そのための不殺生戒だろう。
(一殺多生説への批判はややこしくなるので割愛)

さらに「うーん」と思うのは、彼は師僧なしに座禅をして、大悟したと言うことだ。
禅宗にせよ密教にせよ、師僧なしに座禅や瞑想をすることは厳に戒められていることなのだ。
しかし彼はこれをやってしまった。
そして彼は右翼仲間からは「和尚」と呼ばれ、日蓮宗の寺の住職となったが、正式に得度を受けていない。
(ただこれは意図的であった可能性も高い。宗派や寺院組織に縛られたく無かったのだろう)

もちろん日召が望んだことでは無かったのだろうが、血盟団事件と五一五事件は大正デモクラシーにとどめを刺し、日本は軍事政権へと移行。やがて自滅の道をたどる事になるわけで。

どうあれ、彼の暗殺の背後には、こうした仏教系の右翼思想があったのだ。
ただ、彼を「日蓮主義」に分類するのは疑問だ。
彼の信仰はむしろ禅が主体で、法華信仰をそれを融合させた物とも言える。
それで「親鸞上人を尊敬する」とも 言えるわけだ。これはゴリゴリの日蓮宗原理主義者には言えないことだ。
実際彼は宗派を問われると、「特に無い。座禅もするし、題目も唱える。敢えて言えば大乗仏教徒である」と答えたと言う。
私は大竹普さんの「日召は思想性はともかくも、仏教者だった」という評価に興味を持って、彼の自伝を紐解いたのである。

 

それともう一つ。
良かれ悪しかれ、彼は「大陸浪人」だった。
彼らはとにかく破天荒で、迷惑系youtuberが可愛く見えるほどのハチャメチャぶりで他人に迷惑をかけまくる。
しかしどこか憎めない。迷惑を受けた人達ですら「ったく、しょうがねーなあ」と面倒を見る。
思うに当時の日本が、列強諸国の仲間入りしたのも、こうした破天荒な連中が居たからだったとも言える。
連中のような人材は今の日本には、ちょっと見当たらないし、仮に居てもNETで袋叩きに遭うだろう(苦笑 
こうした連中が活動するには、世の中の懐の深さも必要になる。渋谷のハロウィンの若者に顔を真っ赤にしてるオヤジが大陸浪人を見たら、脳の血管が破裂して即死するんじゃないか? と心配になるw

それはともかくも大陸浪人は、だいたいが右翼だ。しかしリベラルへの呪詛とヘイトスピーチに明け暮れるだけのネトウヨに比べると断然カッコいい。
どこか気持ち良いのもここにあるのかもしれない。

とまれ、私は日召について多く誤解していた。

彼は他の日蓮主義者をどう見ていたのか?
彼は大川周明の大アジア主義に対しては、「欧米排除は逆差別的で好きでは無い」(しかし一目はおく)。田中智学に対しては「学識はあるのかもしれないが机上の空論の退屈な人」と辛辣である。北一輝については、交流があった事実を述べるだけである。

日蓮主義者以外の右翼については、頭山満には最大の尊敬を表明しており、世話になった恩義についても触れる。
安岡正篤に対しては辛辣だ。若者を煽動するだけで自分は安全な所に居て何もしない。保身のためにチクりを平気でする人物云々。

そして近衛文麿と共に、日米開戦反対派であり、吉田茂同様に終戦派であり、中国においても戦線不拡大、早期の日中講和を主張していた。
したがって東條英機とは政敵だった。
これがあって、彼は戦犯を免れたのかも知れない。

だが極東軍事裁判に対しては、彼は明確に否定する。
面白いことに、彼の軍事裁判否定論は、むしろ左翼のそれに近い。
「かの大戦は、土地を奪い合った泥棒同士の戦いである。この裁判は、勝った大泥棒が負けた小泥棒をいじめる、バカバカしくも恥さらしな茶番」。

彼の凄いところは、これを戦犯の疑いがかけられた時、取り調べをする検事連中に堂々と言ったことだ。
当然英米の検事は日本人を見下していた。それにムッと来た彼は、怒鳴り返すことも度々で通訳をヒヤヒヤさせたという。
けど、それがかえってGHQから一目おかれ、この自伝も米国の連中から書くことを勧められたのが、きっかけだという。

どうあれ、政財界の重鎮を暗殺したテロリストの首魁を、現職の総理大臣の近衛文麿が、自宅に居候させ、ご意見番にしていたというのも、今じゃちょっと考えられないことだ。
だが近衛に、戦争反対論を忠言したのも、彼であるのだ。

もちろん彼は国体思想にどっぷり漬かっていたし、価値観も(正確な意味での)右翼そのものである。
家族観も古いし、人権思想も中途半端だ。
故に賛成できるところは多くはない。
同じ仏教徒だが、例えば阿弥陀さんと天皇さんを同一視する思想は、浄土信徒の私には到底受け入れられない。

また、こうしたカリスマ性のある極端な人物は、大言壮語をしがちである。
故に彼の自伝の鵜呑みも危険だろう。
と言うか、自伝に客観性など無い物ねだりなわけでw
書庫に日蓮主義や血盟団事件の研究書がつん読常態である。近いうち、読んでみようかな? とも思っている。
さらに見方が変わるかも知れない。