これは何か? と問われますと、もちろん「餓鬼」です。
より正確には「焔口餓鬼(えんこうがき)」と呼ばれる存在です。
京都の六道珍皇寺に祀られてる存在です。にしましても、餓鬼道の亡者までもが、信仰の対象にしてしまう所が、仏教の底の知れなさなんですね。
仏教美術の先生がたによると、どうもこれは施餓鬼法要の本尊とされたらしい。
「焔口餓鬼」とは何者か?
施餓鬼を知ってる方には常識でしょうが、その起源となった有名な説話があるんですよね。
釈尊の十大弟子の一人に阿難尊者という方が居られました。
彼が真夜中に瞑想をしていると、突然彼の目の前におぞましい姿の大きな餓鬼が現れた。そして彼は恐ろしい予言をします。
「お前は3日後に死に、俺と同じ餓鬼に生まれ変わるのだ」
驚いた阿難尊者が、その恐ろしい運命を逃れる方法が無いか? と尋ねると、
「一つだけある。ガンジス河の砂粒の数ほどある餓鬼を集め、食べ物を満腹するまで施してやれ。そうすればお前の運命は免れよう。」
無理な相談です。
そこで阿難尊者は、朝になると釈尊にこの事を相談します。すると、
「慌てる事はありません。まず器に1つぶんの食べ物を用意しなさい。そこで私の教える陀羅尼をとなえ、食べ物が増える様を観想しなさい。すると餓鬼の世界では、食べ物が膨大に増え、彼らを満たす事ができるでしょう」
そう、「施餓鬼法要」の起源なんですね。
現在でも、多くの宗派で、この方法が実践されます。作法は宗派や地方によって違いはありますが、内容はほぼ同じなようです。
餓鬼を集める真言を唱え、食べ物を増やす真言を唱え、餓鬼の小さな口を開く真言を唱える。
要するにこの「焔口餓鬼」は、餓鬼道を救うために、施餓鬼法要を広めるための観音様の方便だった、と言うわけなのでしょうね。
一般に餓鬼は、口や喉が針の大きさほどしか無いので、食べ物があっても呑み込めない。なんとか飲み込めても、それは口の中で炎となって燃え上ってしまうと言われます。
地獄を解説した本を読むと、だいたいが餓鬼道に関する説明があるんですよね。
それは、身体が炉のように燃えていて、その暑さにもだえ苦しむ餓鬼。汚物だけを食べる事が許されている餓鬼。子供を一日に数回産みそれを食べる餓鬼。樹木の中に虫のように住む餓鬼。
地獄に負けず劣らず、恐ろしい世界です。
ただ、餓鬼道というのは、非常に奇怪な世界でもある。
それは「業」によって、様々な運命を与えられる。例えば、餓鬼に落ちるような業をつんでも、それなりの善行を施せば、それなりの酌量が認められるのです。
これは「餓鬼事経」というお経であります。そこには様々な実例が紹介されます。
ある餓鬼は、全裸のまま寒さと恥ずかしさに震えている。しかし住居と食べ物は保証されているのです。なぜか? 彼女は盗品の古着屋で売買した業で餓鬼に生まれ変わりましたが、事前事業に熱心だったために、衣食住のうち食と住だけは保証されたとされています。
他の経典を除いても、様々な酌量つきの餓鬼が見られます。
飢えと渇きに苛まれるが、天上界の宴会への出入りを許され、食べ放題の餓鬼。
強力な神通力を与えられ、他の餓鬼の群れを子分にして、神をきどる餓鬼。
ただ、こうした酌量つきの餓鬼も含めて、共通の物があるんですよね。
それは強欲と浅ましさです。
実際のところ餓鬼は、強欲で嫉妬深い、あさましい生き方をした人が落ちると言われています。
よく守銭奴のことを「ガリガリ亡者」と揶揄することがありますが、その「亡者」とは要するに餓鬼のことを言うんですね。
それは別に銭ゲバに限ったことではない。
経典には、「食べ物が有り余ってるくせに、目の前で飢えに苦しむ人を放置するだけではなく、わざわざその目の前で、美味しそうに食べて見せる事を好んだ者」が専門に落とされる餓鬼道があります。
そんなふざけた事をする人間がいるのでしょうか? 実は結構いるんですよね。
例えば、赤の他人の夫婦が別姓婚をしても、自分は何も困らないはずです。
また赤の他人の同性愛者カップルが結婚しても、自分は何も困らないはずです。
けど
強欲で嫉妬深く、他人が得をするのは許せない。
実はこれが「餓鬼道」の実体だと思うのです。
8月は施餓鬼の季節です。
施餓鬼法要と餓鬼道について、仏教徒は考えて見ても良いと思います。
先祖供養も含めた。