人を殺めてはならない。

 

 そんなことは、誰だってわかっている。

 

 しかし、どうして殺人事件が後を絶たないのだろうか。

 

 中には、猟奇的な殺人事件もあるが、以下のストーリーでは、誰にでも生じうる「殺意」にスポットを当ててみることにしたい。

 

 一応補足するが、「殺意」を抱くこと自体は罪にならない。

 

 日本国憲法で、「精神の自由」が保障されているからだ。

 

 それを表現することも、「表現の自由」で保障されている(脅迫罪や暴行罪の構成要件に該当しない限り)。

 

 これは当たり前のようで実はそうではないことは、諸外国の状況を見るとよくわかる。

 

 日本は本当に素晴らしい国だ。

 

~~~殺意の飽和点~~~

 

 俺は片桐恭兵、34歳。

 

 北海道で運送事業を展開する会社の旭川支店で経理課で経理係長をしている。

 本社は俺の地元札幌。

 

 経理係長とはいえ、所詮中堅企業の係長だ。

 部下職員はおらず、本来業務の経理に加え、支店建物、備品、消耗品、トラック、営業車、更にアルバイトの人事管理までしている。

 正規職員の人事以外、ヒト、モノ、カネの全てをほぼ一人で管理している。

 

 本店から異動した直後は、これだけの権限を扱う仕事を与えていただいた人事に、とても感謝し、仕事に邁進していた。

 しかし、その気持ちはすぐに打ち砕かれた。

 

 まず、職員からしょうもない相談が多い。

 

 その最たるものが、「パソコンの調子が悪い」だ。

 

 旭川に異動して2週間位の出来事だったと思う。

 営業1課の課長補佐、上川が俺のところに来て、パソコンの調子が悪いから見に来てくれと言った。

 ちなみに彼は50歳手前、禿げて、すこぶる腹が出ている。

 

「どう調子が悪いのですか」

 

上川

「エクセルが急にひらけなくなった。変なエラーメッセージが出ている」

 

 上川のデスクに行き、端末を見ると、「更新作業を終えたため、再起動してください」といったメッセージが出ていた。

 

「再起動はしましたか?」

 

上川

「していない」

 

「どうしてしないのですか?」

 

上川

「していいかどうか分からなかったから」

 

「しましょうよ」

 

 そう言って再起動すると、エクセルは何事もなく使用できるようになった。

 

 しょうもない奴だな。

 こいつが中間管理職なんて、営業1課は大丈夫か。

 こいつの部下じゃなくて本当に良かった。

 

 しかし、いちいちこんなことで腹を立てていたら仕方がない程、色んな職員からしょうもない相談が多い。

 忙しい時にこの手の相談が来たら、仮に俺が出家して仏になった人間だとしても、怒りのボルテージの蓄積は避けられないだろう。

 そんなどうでもいいことで俺を呼ぶな――

 

 その怒りが殺意に変わる出来事が起こった。

 

 ある冬の日、うちの営業車が、支店の昇降機式駐車場の天井にぶつけてしまい、車のアンテナを破損したとの報告があった。

 うちは運送会社なので、車の事故に関してはとてもうるさい。

 俺が着任した直後にも大きな事故があり、本店から二度と起こすなと口を酸っぱくして言われた経緯もある。

 

 しかし待てよ。

 天井にアンテナをぶつけたとはどういうことか。

 ぶつけた営業車の駐車場所を決めたのは俺、この間駐車した時は、問題なく止められたのに。

 

 今回車のアンテナをぶつけたのは、営業2課の定年間近の髙橋というパッとしないおっさんで、とても申し訳なさそうにしていた。

 話を聞くと、駐車場のタイヤの溝に上手く入れられず、段差に乗り上げてしまい、アンテナをぶつけてしまったとのこと。

 

 確かにうちの駐車場は狭い。しかし、どんくさいなというのが素直な感想だ。

 アンテナの修理なんて数千円程度だろうし、いちいち本店に報告する必要もないだろう。

 

 「20万円程かかります。」

 

 修理工場の担当者がそう言った。彼の声よりも、血の気が引く音の方が大きく感じた。

 

俺「どうしてそんなにかかるのですか?」

 

担当者

「アンテナも確かに壊れているのですが、天井に穴が開いています。板金で治せる範囲を超えているので、交換が必要です。」

 

俺「分かりました。検討します。」

 

 うちと長い付き合いの修理工場なのに、異動してきたばかりの俺を見くびって吹っ掛けやがったな――

 そう思い、別の修理工場に見積もりを取ったが、全く同じことを言われて、天井をよく見ると確かに穴が空いていることを確認して少し反省した。

 

 支店に戻り、上司の経理課長に金額を伝えようとしたところ、何だが騒ぎが起きている。

 

営業2課長(髙橋主任の上司)

「そんなところに駐車場所を指定している、経理課にも責任があるのではないですか?」

 

経理課長(俺の上司)

「申し訳ございません。お、経理係長」

 

経理係長(俺)

「どうしたのですか」

 

営業2課長(髙橋主任の上司)

「係長か、あんな狭いところを駐車場所に指定したのは」

 

経理係長(俺)

「はい。うちの駐車場は狭いので、場所を有効活用するために」

 

営業2課長(髙橋主任の上司)

「だからと言って、ちょっとした段差に乗り上げたくらいで天井にぶつかる場所を指定するなんて、どうかしているぞ!」

 

経理係長(俺)

「私が駐車した時は、全く問題ありませんでしたよ。そもそも、その段差は本来、車が乗りあげるべきところではないですからね」

 

支店長

「それは正論だが…」

 

 支店長が割って入ってきた。このタイミングでは大人しくしていてほしい。

 

経理課長(俺の上司)

「確かに、駐車場所が悪い上に、周知が足りてなかったと思います」

 

経理係長(俺)

「ちょっと待ってください。うちの駐車場は狭いので、必要に応じて運転手以外がバック誘導するようにメールで周知しているではありませんか」

 

経理課長(俺の上司)

「しかし、タイヤの溝からはみ出さないようにという周知はしていないだろう?」

 

経理係長(俺)

「え?それは、はい…」

 

支店長

「まあ、今回は仕方かったということで。髙橋主任には、あまり落ち込むことなく、今後も営業を頑張るように伝えてくれたまえ」

 

経理課長(俺の上司)

「係長、駐車する際は、タイヤの溝からはみ出さないようにという周知をするように」

 

 俺が悪いのか。

 どう考えても、ぶつけた張本人が悪いに決まっているだろう。

 そいつに責任を全て負わすのが可哀そうとおもんぱかるのは、支店長や経理課長は優しいのかもしれない。

 

 しかし、そうすることで、あんなところを駐車場所に指定した経理係長が悪いという雰囲気になった。

 ぶつけた張本人も悪びれる様子も薄れ、何事もなかったように車を運転している。

 

 こっちは、ただでさえ忙しい本来業務を止めて、一日がかりで本店への報告書類の作成や、修理の対応をしているのに。

 

 でも仕方がないか、それが俺の仕事ではないか。

 営業車の管理は俺の仕事だし、割り切ろう。

 なんとか怒りを抑えて仕事をしようとしたところに、営業1課の課長補佐、上川がやってきた。

 

上川

「これ、捨ててもいいかな」

 

 そう言って、事故関係の報告書類や、見積書が広がっている俺の机に何やらプラスチックの破片を置いてきた。

 あたかも、俺に捨てろと言っている。

 

「なんですか、これは」

 

上川

「新しく来た、アルコールチェッカーについていた。捨ててもいいのかなと思って係長のところに持ってきた」

 

 (了)

 

※ この物語に登場する組織名、人物名等は全て架空のものです。