虚偽の世界

虚偽の世界

この世界では家族の絆も友人との友情も恋人への愛情も全てが嘘
虚偽の世界が造り出す幻想を打ち砕き真実を見つけるブログ

Amebaでブログを始めよう!

 

みぞの鏡越しにハリーに語りかけるヴォルデモート

1作目ハリーポッターと賢者の石より

 
 
ヴォルデモート"Harry Potter... We meet again"
 
ヴ「ハリーポッター、、また会えたな。」
 
ハリー"Voldemort.."
 
ハ「ヴォルデモート、、、」
 
ヴ"Yes, You see what I become? See what I must do to survive? Live off another, a mere parasite. Unicorn blood sustains me but it cannot give me a body of my own. But there is something that can. Something that conveniently enough, lies in your pocket."
 
ヴ「いかにも、お前にはこの私のあり様がみえるか?生き長らえるために何をしなければならないか。他者に依存しなければならないただの寄生虫だ。ユニコーンの血は私の存在を維持させることはできても肉体は与えてくれない、しかしそこにはそれを可能にする十分なものがある、そうお前のポケットの中にな。」
 
-----その場から逃げ出そうとするハリー、しかしクィルの魔法の炎で逃げ道をふさがれてしまう。
 
ヴ"Stop him!! Don't be a fool. Why suffer an horrific death when you can join me and live?"
 
ヴ「奴を止めろ!!」「バカな真似はよせ、なぜわざわざ悲惨な死を選ぶ必要がある?私に協力しともに生きることができるというのに。」
 
 
ハ"Never!!"
 
ハ「いやだね!」
 
 
ヴ"Bravery. Your parents had it too. Tell me Harry, would you like to see your mother and father again? together."
 
ヴ「勇敢だな、お前の両親もそうだったよ。一つ教えてくれないかハリーよ、お前は母と父に会いたくはないか?二人一緒に。」
 
ヴ"We can bring them back. All I ask is for something in return. That's it Harry, there is no good and evil. There is only power and those too weak to seek it. Together, We'll do extraordinary things. Just give me the Stone!"
 
ヴ「我々が協力すれば二人を生き返らせることもできるのだ。その見返りをお前が私に差し出しさえすればな。」
 
----ポケットから賢者の石を取り出すハリー
 
ヴ「そう、それだハリー。世には善も悪もない、あるのはただ力とそれを追い求めるには弱すぎる連中がいるだけなのだ。ともに素晴らしいことを成し遂げようではないか、だから石を私に渡すのだ。」
 
-----鏡からハリーの両親の姿が消え正気に戻るハリー
 
ハ"You Liar!!"
 
ハ「この嘘吐きめ!!」
 
 
 
 
クィルの後頭部に張り付き、みぞの鏡越しに語りかけるヴォルデモートが象徴しているものは、虚偽の世界に生きている人間とその心に潜む邪悪な部分である
 
このシーンに秘められた内容を理解するためにはまずヴォルデモートがなぜクィルの後頭部に寄生しているのか、また何故鏡越しに語り掛けているのかといったことを説明する必要があります。
 
人は誰しも決して表には出さない裏の顔といったものがあります、近所でも評判の一見善良で真面目そうな人がとんでもない事件を起こして逮捕されて周囲の人々を驚かせるようなニュースも目にしたこともあるかと思います。このクィル先生も最初は表の顔は温和で優しそうで気が弱そうな人間を演じておりましたが、その本性はヴォルデモートに操られた極めて邪悪でかつ危険な人物であり、表の顔だけでは人は判断してはならないという教訓を示す典型的なキャラクターとして描かれています。
 
ヴォルデモートがクィルの後頭部に張り付いているのは善良そうな人間の裏の顔には邪悪なものが潜んでいるのだというメッセージでもあります。それでも全員がそんなに邪悪ではないと仰る方もいるかと思いますが、私の見立てでは世の人間の9割の本性は個人差はあれど邪悪です。表面的に善良さを装い、なおかつ自分自身をも欺く技術には長けているので分かりづらいですが。本当に善良な人間はおそらく100人いれば数人しかいないでしょう。
 
 
他者に寄生してユニコーンの血をすすって生き長らえている
 
他者に寄生、依存しているというのは前の記事でも説明していますがこれは孤独に耐えられずに自分自身と向き合うこともせず、他の人間に依存している大多数の人々のことを指しています。彼らは他者から切り離されて孤独になってしまうと死んでしまいます、クィルに寄生しているヴォルデモートとそっくりです。
 
またユニコーンというのは最も神聖な生き物として作中では紹介されています、これの意味するところはその人間の内面に宿る最も神聖なもの、ユング心理学でいうセルフ、真の自己、またそれを達成したときに得られる唯一無二の個性といったものです。他者に依存・寄生して生きるということは相手を虚偽の鏡の世界に繋ぎ止め、孤独の中で自分自身を見つける機会を奪い、その目覚めの可能性を潰すことと同義なのです。人間は他者との交流で互いにそれぞれの最も神聖なものを殺してその血をすすっているのです、例え無自覚であっても。
 
「お前も俺たちのコピーにしてやる」
 
 
現実の社会でのその寄生・依存は作中のヴォルデモートのような分かりやすいものではありません、それらの他者の寄生行為は一般的に友情や家族愛などに偽装されており極めて分かりづらいのです。またそれらの寄生は大抵の場合はお互いの同意に基づいた相互の寄生関係であり、問題は双方にあります。毒親の元に生まれてしまった子供や、あるいは職場などの立場関係などによっては一方的な寄生が成立する場合もあります。その形態も様々で個人間の寄生もあれば社会規模になるものもあります。
 
たとえ社会的地位などが上であっても部下にパワハラをすることでストレスを解消したりする上司も、在日朝鮮人を見下して自尊心を保っている底辺層日本人もその対象に依存しているという点では寄生者であることに変わりはないのです。これらの寄生者の中でも最悪なのは一般庶民から徹底的に搾取を続けて、不平等な社会を作り上げながら彼らを徹底的に見下してその矮小な自尊心を満たしているこの社会の頂点にいる経団連のような老害集団やそのご主人様の白人エリートでしょう。作中ではマルフォイ一家などが典型的な例です。
 
 
自身の弱い心と他者が見せる幻想=みぞの鏡=現実の世界
 
ヴォルデモートがみぞの鏡越しにその姿をハリーに見せているのはまさしくヴォルデモートというキャラクター自体が現実世界に潜む虚偽、悪、寄生、依存といった人間の内面に潜んでいる邪悪な部分を象徴しているからなのです。ハリーの心の弱さの象徴である両親の姿とヴォルデモートが鏡に映っているシーンはそのような人間の心理をよく表現しています。ハリーの心は揺れ、途中石を渡しそうになりますが最後はその幻想を振り払い(両親の姿が鏡から消える)正気に戻り、ヴォルデモートの誘惑を退けました。

 
ハリーの場合は両親への捨てきれない想い、また意地悪な叔母夫婦に育てられたために与えられなかった愛情への強い執着がありました。この歳の子供なら当然のことですがそれがハリーの精神的な成長の足かせにもなっていました。
 
このシーンではヴォルデモートは一貫してハリーのその心の弱さに対して働きかけています。現実の世界ならばおそらく自分を探そうと決意している人物に対して「人間は一人じゃ生きていけない」「家族や友達は大切にしよう」「愛するあの人と一緒に過ごそう」などといったデタラメの極みのような決まり文句などがそれに当たるでしょう。勿論本物の愛や友情は存在します、しかし無数の偽物がそこらじゅうに転がっているこの虚偽の世界で本物を見つけようと思うのならば、偽物は全て破壊する必要があります。それこそ少し付き合いをやめたらすぐに音信不通になるような偽物の友人などは全て切り捨てなければいけません。真の友情で繋がった相手との繋がりはたとえ貴方がどんなに落ちぶれても決して切れることはありません、もし誰も残らなかったらまだそのような人とは出会っていなかっただけです。
 
世の中に存在するあらゆる形態の虚偽、嘘を見抜くためには知識が必要不可欠です。とりわけその人間の本心、裏の顔といったものを知るためには人間がどのようにその腐った本性を覆い隠すために、常日頃からあらゆる種類の嘘を他人のみならず、自分自身にさえついているのかといったことが見抜けなければなりません。そのためには貴方自身も今まで自分が自分自身についてきた数多の嘘を見破らなければなりません。これは大変苦しいものであり、乗り越えられる人は極めて少ないでしょう、しかしやらなければ貴方の人生は石を渡してしまった場合のハリーのように完全に無意味になります。またその機会も30を超えるとほぼ失われてしまうようです。*若い方には頑張って頂きたい・・・
 
「一緒に生きよう、虚偽と幻想の世界で・・・。」
 
 
あなたの偽物の友人や家族がたえずあなたに要求しているのはこのようなものなのです。自分自身からとうに逃げ出してその可能性さえ潰えているゾンビような人間の相手はしてはいけません。彼らは表向きは善良な人間かもしれません、しかし他人に依存しその嘘っぱちの生き方をあなたに強制するのであれば、その本質は既にヴォルデモートと同じなのです。
 
 
あなたが自分自身を見つける道を邪魔するような人間には例え家族だろうが友人だろうがこう言ってやりましょう。
 
 
 
 
 
「この嘘吐きめ!!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

ハリーポッターはおそらく知らない人はいないほどの知名度を誇る映画だと思いますがそこに秘められたメッセージをまともに解説しているウェブサイトは私の知る限りでは皆無です。そこに込められたメッセージはこのブログの趣旨と大変共通するものが多くあるのでそれぞれのシーンと共に取り上げていこうと思います。

 

1作目ハリーポッターと賢者の石、みぞの鏡に映る両親の姿に囚われ鏡の前で座り込むハリーとダンブルドアの会話より

 

動画URL

https://www.youtube.com/watch?v=Ck4Bk6SKO7o

 

 

ダンブルドア"Let me give you a clue, the happiest man on the earth, would look in the mirror and see only himself, as exactly as he is."

 

ダ「君に一つヒントをあげよう、地上で最も幸せな者はその鏡に自分自身の姿だけを見る、偽りなき本当の彼自身の姿をね。」

 

ハリー"So then, it shows us what we want, whatever we want"

 

ハ「じゃあこの鏡は僕らの望むもの、何でも見せるんだね。」

 

ダ"Yes and No. It shows us nothing more or less, than the deepest and most desperate desire of our hearts. Now you, Harry, who have never known your family, you see them standing beside you."

 

ダ「そうともいえるしそうでもないとも言える。この鏡が我々に見せるのは他でもない我々の心の最も深い部分にある、最も絶望的な望みなのだ。そしてハリー、君は両親は知らない、それゆえに彼らが君の両脇に立っているのだ。」

 

ダ"But remember this, Harry, This mirror gives us neither knowledge nor truth, Men have wasted away in front of it, even gone mad. That's why tomorrow, it will be moved to a new home and I must ask you, not to go looking for it again. It does not do to dwell on dreams and forget to live."

 

ダ「しかしこれだけは覚えておきなさい、この鏡は我々に知識も真実も与えない、人は鏡に囚われ時間を無駄にし狂気に陥ることさえあるのだ。それゆえに明日、この鏡は別の場所に移される。そして君にはこの鏡を二度と探し求めたりすることがないようにお願いする。幻想に囚われ生きることを忘れてはならない。」

 

 

 

 

みぞの鏡の意味するものとは

 

みぞの鏡、英語ではErised mirror(Desireの逆さ読み)の意味するものを理解するためにはまず普段私たちが見ている外の世界や他人が私たちの心の鏡であるという点から説明しなければいけません。

 

 

 

貴方がだれかを憎むとき、それはただ彼の姿を借りて自身の内面にある何かを憎んでいるのである。自分自身の内にないものなど、我々の心を動揺させたりはしないものだ。

 

                             ヘルマン・ヘッセ

 

 

カメラのレンズというのは人間の目と全く同じ機能をもっていますが、カメラ自体はその視界にどんなに美しい風景や或いは魅力的な男性や女性を捉えても何の印象も持ちません、また被写体と風景の区別すらありません。またマイクも同様にどんな素晴らしい音楽を拾い上げても人間のように感動したり涙することもありません。このカメラやマイクと人間の違いは何なのでしょうか?

 

最近のカメラというのは人間の顔を識別する機能がついています、風景の中に人間の顔に相当するものが存在していると、その被写体に自動的にピントを合わせるようになっています。それはただ風景を捉えるだけの従来のカメラとは違い、「人間の顔」という物体を識別する「プログラム」がカメラにインストールされているからです。人間の精神もまたそのプログラムと同じようなものであり、さらに人間の場合はその顔に対してこれは美しくこれは醜いといった美醜の判断を下す機能も付加されています。それゆえに美醜という概念が人間には存在するわけです。

 

この人間の精神に内在するプログラムは元々人間が生まれたときからインストールされています。それともあなたはこの人が美人でこの人が不細工であるといったことを他人から教わって、それを自分の美醜の判断基準にしていますか?もちろんその時代の文化的な影響もないわけではありませんが外にいる他人の美人の存在は関係なしに、そのプログラム、美人や不細工といった概念の原型は貴方の心の中にあるものなのです。これは美人やそういったもの以外だけでなく、外側の世界にある、あなたの心の中に何らかの印象や感情を生じさせる全てのものにも当てはまります。好きな友達も嫌いな上司もかわいい猫もきれいな風景も、大好きな小説も映画も音楽も、貴方が憧れる人物も一つの例外もなくそうなのです。

 

もし貴方の心の中にそれらに対応するものがないのなら、カメラやマイク同様にその対象物に対して何の印象も感情も抱かないはずです。人は生まれながらにしてその世界の原型ともいえるプログラムをその心に有しているのです。

 

 

しかしながらそのプログラムも、ゲームのように起動してディスプレイに映さなければそれを体験できないように楽譜も楽器で演奏されなければその音楽を聴くことはできません。同様のあなたの持つ世界もまたそれを形として表す外側の世界がなければ体験することができないのはお分かり頂けるかと思います。自己の内部にあるなにかを他者に投影することで人は初めて自分自身を認識することができるというわけです。自分自身の姿というのも鏡を見なければ知ることができないのと全く同じです。また鏡に映った自分というのは左右が逆になっているのも、鏡としての他者は自分であると同時にまた自分自身ではないという2重の意味を示唆しています。

 

以上の点から他者や外側の世界が自己の鏡であるという点はある程度ご理解頂けたかと思います、しかしそこにはある問題が存在しております。カメラのレンズに埃が被っているときれいに撮影できないのと同様にそれは自分自身の心の目が曇っていると物事を正しく見ることができないということです。


人はその内面に自己の理想の異性像の原型であるアニマ・アニムスやセルフ(真の自己、神)といったものを所有しております、貴方が心を奪われるような相手に出会ったとき、あなたは自己の内面に存在するアニマ・アニムスをその人物に投影してその人の姿を借りて見ていることになります。しかしながら外にある自己の内面を投影する対象物はそれ自体はあくまで表面的な近似、相似に過ぎずただ似ているのであってそれ自体ではないのです。とりわけ理想の異性像に酷似した相手や或いは真の自己イメージ、神とも呼べるものの投影が誤った対象に対して行われた場合は凄まじいほどのその対象物や人への傾倒が引き起こされ大抵は破滅的な結果をもたらします。それはあたかも仮想ファイルを噛まされたプログラムのように誤作動を起こしてしまうのです。

 

 

アニマをアニメキャラクターに投影してしまった男性

 

アニムスをジャニーズに投影してしまった女性陣

セルフを詐欺師教祖に投影してしまったために起きた悲劇

イスラム教徒

 

 

ナチスドイツ政権下のドイツ国民の異常なまでのヒトラーへの崇拝と傾倒、詐欺宗教団体の教祖に心酔して資産をすべて差し出してしまう信者、大日本帝国の日本国民、クズホストに貢ぎ続ける風俗嬢、知識の豊富な親切な人だと思ってセミナーに参加したのに騙されて大金を失う、信じていた妻に浮気をされる、親友だと思っていたのに裏切られる、こういったものも全ては自身の心の目が曇っているがゆえに、内面的な自己のアニマ・アニムス・セルフといったものが誤った対象に投影されることで引き起こされるのです。

 

この人は運命の人に違いない、だってこんなにも私の心が揺り動かされているのだから。

 

表面的な相似に騙され相手の本質を見抜けず、「そうであってほしい」という幻想に囚われることによる悲劇は後を絶ちません。自分を知らないとこのような偽物に翻弄され続け、貴重な人生を浪費することになります。

 

 

もちろん相手を騙したり裏切ったりするほうが悪いのですが、金に目がくらんで詐欺師の罠に自らはまりにいく詐欺被害者や盲目なカルト宗教信者、ホストに騙される女性など、被害者側の心の弱さにも十分問題があるといえるでしょう。妻や恋人に過剰な期待を寄せる夫や彼氏も同じです、とりわけカルト宗教の詐欺被害に遭う人間は主体性が欠如しており大事な決断を他人に任せたり、自助努力を欠いた安易な死後救済論や金もうけに目が眩んで騙された愚かな自分といった事実を直視できないがゆえに、一度のみならず何度も騙される人が極めて多いのです。彼らのような心も頭も弱い人間にとっては、自分たちの真実の姿というのはあまりにも辛辣であるがゆえに、彼らは常に自身の弱い心にとって都合の良い「虚偽の鏡」の見せる幻想に囚われ続けているのです。

 

 

 

みぞの鏡=一般の人間がそうあってほしいと望む世界

 

みぞの鏡が何故そのような幻想を見せ、ダンブルドア校長先生がハリーにその危険性を指摘したかこれでお分かりいただけたでしょうか?このシーンの意味するところは大多数の人間はその心の弱さが生み出した存在しない幻を他者のみならず自分自身にすら投影して生きている。そのような幻想に囚われて「生きる」ことを忘れてはならないというこれ以上ないほど重要なメッセージが込められているのです。嘘は優しく真実は残酷です、しかしその虚偽の世界に留まることによる代償は非常に高くつくのだということは忘れてはなりません。人は虚偽の世界を打ち砕き真実に目覚めなければならないのです、たとえその真実がどれほど受け入れがたい内容であったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはとある方の体験談がもとになっています。ここではA氏としておきます。

 

A氏は10代の頃から色々と素行が悪く問題のある人間だったそうです、学校もロクに行かずに30になるまではずっとニートでした。幸い家庭は裕福だったので生活には困らなかったそうですが、父親はほとんどA氏を顧みることなく放置状態でそんなA氏を献身的に世話をして支えてきたのが母親でした。無職のA氏のために毎日欠かさず食事を作り、学費も立て替えてくれて車や生活に必要なものは全て揃えてくれたそうです。

 

しかしA氏は30を前にしてその母親と絶縁することを決めたのだといいます、この話だけ聞けばとんでもない人間だと思うかもしれませんがその後のA氏の説明は非常に興味深いものでした。

 

 

A「これは苦渋の決断でした、しかしある日私は気づいてしまったのです。私を不能な、未熟で、親に依存した状態に留めておこうとする最たるものは、私自身の怠惰ではなく母親の偽りの愛だったのだと。」

 

 

A氏はこう続けます

 

A「私はずっと母に助けられて生きてきました、母がいなければ私はとうの昔に首を吊るなりして死んでいたでしょう。しかしそれでも私は母が嫌いで仕方なかった、その原因がずっと分からなかったのです。あれほど献身的に世話をしてくれて、私が母を殴りつけた後もただそれに耐えて次の日には変わらず食事を用意してくれました。私はその姿を見るたびに酷い罪悪感に囚われていきました、こんなに一生懸命世話をしてくれる人に対して私は何と恩知らずな人間なのだろうと。」

 

A「しかしその母の献身的な態度の根底にあるものは私への愛情ではなかった、母は親族とも絶縁状態で友人もいなかった、退職後に一層深まった孤独感から自身の存在意義を息子の面倒を見るということにしか見出すことができなくなっていた状態の母が、その個人的な不純な動機と理由から私を自立できない未熟な人間にとどめておくための支配の方法だったのです。そうすれば私をずっと自身の孤独感を埋めてくれる飼い犬のように傍に置いておけるからです。」

 

A「むろん私への愛情も全くなかったわけではないでしょう、比率でいえば4:6ぐらいの僅差だったとは思います。それでもその母のそのような不純な動機を持って何十年と続けられた行為は私の精神をひどく蝕み、私は今でもその後遺症に苦しんでいます。結婚相手を見つけたと母に報告したときの母の鬼のような形相は今でも忘れられません、その時に私は母の内面に潜む醜悪な怪物の姿を垣間見た気がしたのです。母はその内面の善と悪、息子の自立を促す親としての務めと息子を手元に置いておきたいという願望、その両者の戦いにおいて敗北してしまった、それゆえにあの人は母親である資格を自ら失ってしまったのです。」

 

A「いくら献身的に世話を何十年としてきたからといって、その根底にある動機が個人的なものであった以上感謝する必要はないと思います、私の人生は母のそのような精神的な攻撃に晒されたせいで大変な被害を被りました、そのような支配に抵抗せんとする私の本質は時には母への暴力として噴出していました。母はそのような私の必死の抵抗さえその支配力の強化に利用していたんです、あの息子の暴力に黙って耐えるあの姿勢も全ては私に罪悪感を植え付けてコントロールするための「手段」に過ぎなかったのです。私が母が嫌いで仕方なかったのは頭では理解せずともそういった母の邪悪な本質を感じ取っていたからだと思います。」

 

A「その真実に気づいてしまった以上、母、かつてそうだったあの人に対しては今では憎しみの感情しか湧いてきません。」

 

 

ユング心理学における太母(グレート・マザー)のイメージとは無条件に子供を受け入れ守ってくれる無償の愛とは別に、束縛したり飲み込んでしまうネガティブなイメージも同時に含まれます。ユングはそのような母と子の関係において、子が母親から自立(経済的にではなく精神的に)する成長の過程を「母殺し」という名称で表しています。A氏のそれはまさに典型的な「母殺し」だといえるでしょう。

 

人間の内面に潜む悪というのは漫画や映画に出てくるような分かりやすい悪役のそれではありません、それは往々にして愛や友情に偽装しているために非常に気付き辛いのです。この母親の例をとってみればそれがどれほど見抜き辛いものなのかよくお分かり頂けるかと思います。ある意味まだ明確な悪意を持って攻撃してくる「敵」のほうが遥かに良心的ではないでしょうか?感情や表面的な助けなどは考慮せずに冷徹な視点から物事の本質を看破することができなければ真実というのは見えてこないものなのです。あなたの母親の愛は本物ですか?それはあなたに幻想を見せて貴方を縛り付けてはいませんでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

人間の社交本能も、直接的な本能ではない。つまり社交を愛するからではなく孤独が恐ろしいからである。

 

                            ショーペンハウアー

 

私には親友がいる、家族を愛している、大好きな恋人がいる。こうおっしゃる方も沢山いるかと思います。お聞きしますが孤独への恐怖とその大切な人たちへの想い、どちらが強いですか?必要に迫られたときにその関係が壊れるリスクを冒してその友人のために厳しい助言を与える覚悟がありますか?ただ孤独になるのが怖いからそれから逃れるために他者との繋がりを友情や愛情に偽装して相手に押し付けていませんか?

貴方は本当に心の底から相手のことを想っていますか?そこに個人的な理由のような不純物が混ざっていないと言い切れますか?

 

何故人は孤独を恐れるのか

 

人間は孤独の状態になるとその深層心理に存在している真の自己、ユング心理学でいうセルフがそれまでその人が放置してきた人生の課題、乗り越えなければならない内面の問題、またそれに関連した過去の記憶、たいていは思い出したくもないけど忘れられない嫌な思い出を突き付けてきます。真の自分自身と向き合うことは、それこそ薬で強引に抑え込んできた病状が噴出してくるようなもので相当な苦しみを引き起こします。とりわけ内面が腐っていて病状が酷い人ほどそれに比例して孤独になったときの苦しみや恐怖も強くなります。

 

学校にいる不良で腕っぷしが強くて誰も逆らえないなタイプで常に仲間と一緒にいないと耐えられない、ゆえに無理矢理嫌がる相手を呼び出して引き連れまわしているような人はいませんでしたでしょうか?またその強引な誘いを一回でも反故にされると激昂するようなタイプの人間はいませんでしたか?女性でも常にだれかと携帯でやり取りしていないと生きていけないような人もそこらじゅうにいます、孤独から逃れるためなら好きでもない男と付き合ったりもします。1日中パソコンの前に座ってゲームばかりするのも、何もそれが楽しいからではありません、自分と向き合うよりは楽だからなのです。

 

また人付き合いだけなく、ショッピング、パチスロ、TV、ゲーム、携帯、ネットサーフィン、あらゆる種類の趣味・娯楽もこれらの現実逃避に役立っています。仕事や家事に没頭することさえも例外ではありません。この社会の原動力は人間の現実逃避で成り立っているといえば、なかなか驚くべきことではないでしょうか?

 

 

 

人は自身の魂に直面することを避けるためなら、どんなに馬鹿げたことでもしようとする。

 

                                カール・ユング

 

人間の社交の場、和気あいあいとした和んだ雰囲気、仲睦まじく寄り添い合う恋人同士、そのすべてが嘘だとはいいません。しかしそのありふれた幸せそうな日常に潜む真実は「自分自身から逃げ続けたい」というほぼすべての人間が抱える病気が、その姿を偽装して現れたものにすぎないのです。日常にある友情も愛情も親切心も全ては利己的な欲求に基づいて行われる虚偽でしかありません、本当は孤独が怖いから相手を利用しているだけなのに自分は友達を大切にして家族を思いやる良い人間なのだというような、酷い妄想を本気で信じているのが大多数の人間なのです。

 

 

 

我々のすべての災禍は、我々が一人きりでいられないことに由来する。

 

                             ショーペンハウアー

 

 

このような不純な動機で結びついた人間関係は偽物であり、それゆえに不純物の混ざった金属のようにその誕生の瞬間から既に崩壊の種をそのうちに所有しています。盛大な結婚式を多大な出費で行いながら数年経たずに離婚するカップル、常に「外側」の集団の悪口を言い続けることで共通の敵を作り上げなければ結束力が維持できない烏合の衆のような友達の輪、利益だけで結びついた業界関係者、退職し孤独に耐えられず成人した子供に過剰に干渉する親、クズ彼氏に大金を貢ぎ続ける哀れな女性、献身的な親を演じながら子供に罪悪感を植え付け束縛する母親、自分より格下の人間と付き合うことで優越感を感じることで自我を保っている半端な人間。これらの醜悪な本質というのは当人ですら気づいていないことがほとんどです、彼らはそのような動機から人付き合いを続けることに後ろめたさを感じるがゆえに、他人に対してのみならず自分自身にすら平然と無数の嘘をつき続けています、それも全くの無自覚からです。

 

その崩れかけの偽物の絆、この場合呪いと呼んだほうが適切ですが、を維持するために集団に属する心の弱い大多数の人間はあらゆる「政治的な手段」を行使します。

 

*どうでもいい流行に乗っかり無駄な出費をする

*写真を一緒に撮るときには必ずわざとらしい友情を演出したポーズ

*集団の結束力を固めるために共通の敵を作り出して悪口に勤しむ、或いは一番弱いメンバーを身代わりに仕立てあげて攻撃する(嫌韓プロパガンダとネトウヨ工作員などが良い例でしょう)

 

*その集団が他よりも優れているのだという全く根拠のない神話をメンバー間で共有する

*友達が結婚したら必ず本心とは真逆の祝辞を送る

*とりあえず周囲がしていることに従う、それが正しいかどうかは無関係

*その場にいない人間の陰口は当たり前

*優越感を感じられるような道化のような人間ほど好まれる

*よくよく観察すればその話の中身の9割は全くの無意味なものか相互の自己欺瞞と嘘にまみれたものばかり
 

 

 

人間は自身の内面の病気を愛や友情、親切心などに偽装して互いに押し付けてあい、互いに呪いをかけあっているのです。それが日常生活における様々な人間関係のトラブルとなって噴出してくるのです。しかし当人たちは自分が常に他人にも自分自身にも嘘をついている自覚が全くありません、それほどまでに自分から目を背け続けてきた無意味な人生を送ってきたからです。彼らの魂は全くの暗黒の中に沈み込んでいるといってもいいでしょう、光が当たらない場所は見ることができないように。

 

 

また真に健全な友情などで結ばれた者同士にはこのようなやり取りは不要なのです、また互いに独立した精神も所有しているので依存することもなく会う頻度もそんなに多くありません。しかし決してその絆は切れることがないのです。真の友情や愛情といったものは互いに孤独を乗り越えその辛さを知っている強い人間同士の間にのみ成立するものなのです。本当の友情や愛情、友人や愛する人、また自分自身を見つけたいのなら貴方は辛い孤独の中に自ら進んでいかねばなりません。

 

 

"The treasure which hero fetches from dark cavern, is life. it is himself."

 

勇敢なものは自身の内面の暗い洞窟の中で宝物を手に入れる、それは命、彼自身である。

 

                            カール・ユング

 

 

 

「我々はあまりにも他人の前で自身を偽装しているために、ついには自分の前でまで自分を偽装するようになってしまう。」

                    ラ・ロシュフーコー

 

今の自分が自分だと思っている人格すべてが貴方が生まれたときから人工的に造り上げた虚偽の人格だと言われたらどう思いますか?幼少期の人格形成が始まる瞬間から貴方はボタンをかけ間違えてしまったのだとしたら?今まで築き上げてきた虚偽の自分を破壊しなければいけません。そうでなければその虚偽が本来の自分自身を押し殺し、それに取って代わり貴方の人生を支配するでしょう。貴方の人生全てはいくら社会的に成功していようとも自分自身にとって最も大事なものである自分自身を欠いた全くの無意味なものとなってしまうでしょう。



その虚偽の自己の形成は幼少期、つまり赤ん坊の頃は無条件に与えられていた母親の愛情も次第に条件付きのものへと変わっていく頃から始まります。「あれをしてはいけない、こうすれば良い子」といった飴と鞭のような躾が行われるようになる段階で子供は自らを偽ることを徐々に習得していきます。例えそれが自身の意に反していてもこうすれば親から褒められる、自分の存在を認められる、親から見放されずに済むのだといったことを本能的に理解するようになります。

*躾そのものは必要なことです、それがなければ人間は獣同然の存在となってしまいますしそのような状態が良いと言っているわけではありません。

 

 

自然な自分自身と教育や躾で身に付ける自分というのは例えるならツタ状の植物とその支柱に似ています。適切な躾や教育(支柱)がなければ自然な自分(植物)というのは知識を得ることもできず上に向かって伸びることができません、しかしながら支柱はあくまでその成長を助ける補助輪であって本体は植物であることは言うまでもありません。現代日本人の特徴はその支柱、つまり外部からの影響によって形作られる人格が本質にとって代わってその人を支配しており、本体あるはずの植物(本来の自分)が枯れかけて死んでいる状態なのです。このような状態に置かれているのには実はその支柱にあたるものに罠が仕掛けられているからなのです。

 

 

 

 

義務教育で完全に自己の本質を去勢される


日本の学校という場は率直にいえば労働ロボット生産工場そのものです。勿論基本的な読み書きや簡単な計算などはできなければ社会で生きていけませんしまたそれによって得られる知識も欠かすことのできない重要なものです。しかしいくら難しい本が読めたり、難解な数学の問題が解けてもそこに「自己」が欠けているならばそれは自我を持たずただ人間の命令に従うだけのコンピューターと何ら本質に変わりません。

日本の教育現場で何よりも強調されるのが「周囲に合わせること」であり、子供本来が持つ個性的な資質を完全に根こそぎに破壊するように設計されています。戦後GHQの鬼畜白人とその手先の薩長系朝鮮人が日本人を奴隷化するために仕組んだものであります。既にロボット化された低脳教師は揃って生徒にこう言います

 

「みんなそうしてるのにどうして貴方はできないの?協調性が足りない、周りに合わせろ。」

 

また教師のみならず両親も既に洗脳されておりますので似たようなことしか言いません。先生の言うことを聞いて一生懸命勉強して良い大学を出て一流企業に就職して立派なロボットになって、毎夜秘密クラブで小学生の女の子をおもちゃにして国民の血税で遊んで暮らしているような支配層のために働け、彼らが子供に提案する人生の本質とはそのようなものなのです。システムに組み込まれた低脳教師や負け犬の両親は自分たちの人生が完全な失敗そのものであり、また彼ら自身も真の自己を見出す機会もとうの昔に失ってしまった敗者であるという事実から目を背けています。それゆえに彼らは自分たちの子供にも同じ道を歩ませようとするのです、自分たちは間違っていないのだ、だから子供にもそうさせるのだと。

 

彼らがその無知から子に強制することの本質はほとんどこのようなものなのです。子供の頃から親や教師(ごく一部立派な方もいましたが)を全く尊敬できなかったのですが今になって思えばたとえ頭では理解せずとも子供というのは、洗脳された大人よりも物事の本質を捉える直感のようなものがあったからなのだろうなと思います。

 

 

 


孤独に耐えられない弱い心が独立した自己の成長を妨げる


人間というのはただ食べ物さえあれば生きていけるわけではありません、自分がそこに存在している何らかの理由、存在意義が失われればたとえ体は健康でも死んでしまう生き物なのです。学校や職場でも集団から無視されるとものすごくつらいですよね、自分の存在を否定されることは大半の人間にとっては生死に直結するほどの問題なのです。

結論から言うと人間は別に他人の承認がなくとも強い自立した精神があれば孤独でも生きていけます、しかしながらこの国の狂った教育のために本来育てるべきはずである真の自己、独立した精神、個性的な自分自身といったものが完全に去勢されてしまうがゆえに日本人の大半は自分自身というものを全く持っていません。同時に洗脳されたバカ親や周囲の人間からもそのように吹き込まれるために日本人の存在意義とも呼べるものは、その人の内面ではなくその人が何らかの形で所属している集団の中に存在しています。それは非物質的なものなので肉体の外にも存在することが可能なのです、厳密にはその人の内面にある集団の中ではありますが。

それゆえに日本人はその集団の輪から弾き出されないように死に物狂いでしがみついています、その集団の共有する土台となっている友情や考えが虚偽にまみれ、嘘っぱちであまりに馬鹿げていて常軌を逸しているにも関わらずです。心の繋がりなど皆無で会話もない家庭やただ個人的な利益だけで結びついた友人、世間体を維持するためだけに営まれる夫婦生活、このような偽物の関係がこの社会には溢れかえっています。


孤独の恐怖に怯える人々は必然的に集団とその狂った考えに従属させられます、またそれを維持するために自分自身にあらゆる嘘をつき続けてそれを正当化することにも慣れていきます。どうでもいい流行に乗っかって友人に合わせる、面倒くさい会社の行事にも参加する、別にもう愛してもいない妻のために毎日夜遅くまで働く、親族もどうでもいい連中ばかりだけど世間体があるので顔を出す、別になんとも思ってないけど葬式では悲しそうな顔をとりあえずしておこう、だってみんなそうしてるから。

 

 

物事から自由になるためには孤独を味方につける

 

このような自分自身に対する背信行為を24時間365日続けていれば感受性が正常な人ほど病気になるのは当然ではないでしょうか?自殺者が絶えないのもうなずけます。周囲の頭の狂った大多数の人間からは距離を置かねば自分が狂ってしまいます、彼らは演技をやめられない役者と同じで精神の病気なのです。このような状況から抜けだすためには孤独に耐えられるだけの強い心を、他のいかなるものよりも優先して手に入れなければならないのです。