「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 信仰とは自分で取得できる類のものではなく、信じさせられるものである。
 このことについては何度か書いてきたが、上の聖書箇所もその信仰についてである。

 まず、弟子たちは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました」。
 つまりイエスが知らせてはじめて御父を分かったのである。
 神が神であるということをどれだけ自分の力でつかみ取ろうとしても、観念の域を出ることはないだろう。
 それとは違い、イエスが私たちにお会い下さるとき、私たちは神が神であることを否応なしに分からされる。サウロ(パウロ)を思い起こせばこのことは明らかだ。

 神の実在と統御、これを認めざるを得なくなったとき、自分の好き放題に生きていた時期は終わり、イエスを介した御父とのつながりの中に入る。
 私たちは、人としての本来の自然さに戻ったのだ。
 救いとは、このような回復のことであり、迷っていた羊がもとに戻ることである。

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[一版]2014年11月 8日
[六版]2026年 4月19日

 イエス様の平安がありますように!


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