「それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:27-31)

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 ピラトの決定によって十字架に付けられることになったイエスは、十字架に付ける側のローマ兵にからかわれる。
 肉の上ではユダヤ人のイエスにとって、異邦人のローマ人に馬鹿にされるということは耐えがたい侮辱と屈辱だったかもしれない。当時の一般的なユダヤ人であれば間違いなくそうだ。
 しかし、世の多くの人を救う十字架の道は、とてつもなく大きな苦しみの最果てに十字架に死ぬのであり、このローマ兵のからかいもその大きな苦しみの過程のものである。
 イエスはこのような苦難のなかで、十字架に死によみがえって救いの狭き道を拓いてくれた。
 私たちも、気づくとこの狭い道に入り込んでいて、今までになかったほどの大きな苦しみを味わうのである。もちろんその先にはよみがえりと救いがある。
 言い換えると、巷間言われる受難というのは、他人事ではなく自分のことになるはずなのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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