「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:10-13)

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 「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」というとき、何を持っているのだろうか、または何を持たないのだろうか。
 端的に言って信仰なのだが、ここにいう信仰とは、御父に与えられるものであって、自分でもぎ取る類いのものではない。イエスの敷いた道に導かれて十字架に死に御父によって新しいいのちによみがえることである。
 だから、私たちを石にたとえると、この石に信仰が与えられると金塊にごろっと変わるのである。全く変わるのであり、石の表面に金メッキを付けたのとは全く異なる。メッキは簡単にはがれて石の地肌が見えてしまう。
 昔日出た礼拝の説教で、牧師が「毎年聖書を通読するのですが、私はヨシュア記を読むのがもうすごく苦痛で戦争は嫌で」云々と脱線した。さてこの礼拝が終わりにさしかかって連絡がアナウンスされる中、執事の方がマイクの前に立って「私は自分の国は自分で守るべきだと考えます。」と発言して場の雰囲気が一気に固まり、この牧師は何も言えなくなってしまったということがあった。礼拝なのか政治なのか分からなくなってしまったこれが、上に書いた石の地肌の一例だろうと思う。

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 健やかな一日をお祈りします!

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