「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)
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イエスはこの世に来て、どのような役割を果たしただろうか。
一言でいうと、「肉において罪を処罰」するため(ローマ8:3)である。
そのために、十字架に架かり、そしてよみがえった。
そして、私たちが自分自身の罪を処罰して御父と和解するための道筋をつけたのである。
これがイエスの役割であり十字架であった。
イエスにある者、また、イエスに従おうとする者もまた、自分なりの十字架を気づくと負っている。
それはイエスがつけたこの道筋を歩むことに他ならない。
だから、イエスが「自分の十字架を負って」とここで言うのはたとえでも何でもない。文字通り、十字架を背負って自分のいのちを失うのである。
そして、もとより死んでいたいのちの代わりに、いきいきとした躍動するいのちをいただく。
もしも何事もなく広い路地を歩いたならば、もとより死んでいたいのちは死んだままなのである。
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健やかな一日をお祈りします!

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自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)
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イエスはこの世に来て、どのような役割を果たしただろうか。
一言でいうと、「肉において罪を処罰」するため(ローマ8:3)である。
そのために、十字架に架かり、そしてよみがえった。
そして、私たちが自分自身の罪を処罰して御父と和解するための道筋をつけたのである。
これがイエスの役割であり十字架であった。
イエスにある者、また、イエスに従おうとする者もまた、自分なりの十字架を気づくと負っている。
それはイエスがつけたこの道筋を歩むことに他ならない。
だから、イエスが「自分の十字架を負って」とここで言うのはたとえでも何でもない。文字通り、十字架を背負って自分のいのちを失うのである。
そして、もとより死んでいたいのちの代わりに、いきいきとした躍動するいのちをいただく。
もしも何事もなく広い路地を歩いたならば、もとより死んでいたいのちは死んだままなのである。
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