「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)

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 まだネットに性善説が残っていた頃には、私も見知らぬクリスチャンたちとメールで交流していた。
 ある人から久しぶりにメールがあったのだが、私はあなたを赦しますという。
 私はこの人に何かした覚えはないのだが、この人は何かのことで私に腹が立ったのだろう。
 それにしても、私はあなたを赦しますというのは、このメールを寄こした人が御父に赦されたいがために書いたことが明らかで、私のことなど赦してなんかいないのである。
 全く身に覚えのないことで赦すの赦さないの、しかもそれは私のためなどではないのだから、返信など書かずにほおったことは言うまでもない。

 この人は、おそらくは聖書をマニュアルと思っていたのだと思う。
 ここに書いてあることをそのとおりにやれば天の御父から赦される。
 しかしそうではないのだ。聖書は十字架と復活なのである。
 この救いの道はイエスが切り拓いた。聖書に書かれているのはこのことだ。
 私たちは気づくとその狭い道に入り込み、苦しみの末に十字架に死ぬ。
 そしてそれゆえに救い主イエスを介して御父が私たちのすべての罪を赦してくださり、私たちをお造りになったこの御父と和解できて復活する。
 だから、信じるというよりは信じさせられるのであり、信仰は獲得するものではなく与えられるものなのである。

 私は狭量な人間であるから、何かあるとその人を許せずにいる。
 決して許すことのできない人も何人もいる。そのことで心が責められることも多くある。
 私のことを許さない人も数多い。
 だが、私はイエスを介した造り主との和平の中にいる。
 一番大切な、というより唯一大切な赦しをいただき、こんな狭量な人間であっても心満ち足りている。

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・聖書とは関係がないですが、時間と偶然は、許し合うために大切だと思っています。

 健やかな一日をお祈りします!

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