「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)
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前回2019年10月14日付の記事と同じ聖書箇所。
この記事の中で、「(キリストの復活と同様に)新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気付かされたので書いてみる。
何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそも自然と罪を犯さなくなるのではないか、ということである。
ここに有名な聖句を例示する。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)
この聖句がなぜ有名かというと、聖書とは関係のない人からそんなことできるわけないだろうと失笑される箇所だからだ。
ところが、自分についてふと気付くと、殴られたことこそないが、もう随分、やり返してはいのである。
いや、本音を言えば悔しいことも少なくないし、あとからぶん殴ってやりたくなることもある。
だが、もう随分とやり返していない。言い返しすらしない。
気力がなくなってきたからだろうか。丸くなったからだろうか。それともとろくなったからだろうか。
どうもそうには思えない。それだけならば陰湿な仕返しをするだろう。だが、そういうことも全くしなくなった。
であれば、もしかしたら内住の聖霊が仕返しをしないように自分を動かしているのではないか。
自分の肉はやり返したいのだ。
だが、霊はやり返すことをとどめる。
こうして私は、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という律法を結果的にだが守っていることになるのである。
私が守っているというより、私の内側のものの働きによるようだ。
全ての律法を遵守できるとは到底思わない。
しかし内住の聖霊を宿す私たちは、「あのでくの坊何もやりかえさねーよ」とか罵詈雑言を浴びつつも不思議とやり返すことはなく、御父との平和という世にはない満足感を手がかりにして日々歩んでいくのだと思う。
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健やかな一日をお祈りします!

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死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)
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この記事の中で、「(キリストの復活と同様に)新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気付かされたので書いてみる。
何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそも自然と罪を犯さなくなるのではないか、ということである。
ここに有名な聖句を例示する。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)
この聖句がなぜ有名かというと、聖書とは関係のない人からそんなことできるわけないだろうと失笑される箇所だからだ。
ところが、自分についてふと気付くと、殴られたことこそないが、もう随分、やり返してはいのである。
いや、本音を言えば悔しいことも少なくないし、あとからぶん殴ってやりたくなることもある。
だが、もう随分とやり返していない。言い返しすらしない。
気力がなくなってきたからだろうか。丸くなったからだろうか。それともとろくなったからだろうか。
どうもそうには思えない。それだけならば陰湿な仕返しをするだろう。だが、そういうことも全くしなくなった。
であれば、もしかしたら内住の聖霊が仕返しをしないように自分を動かしているのではないか。
自分の肉はやり返したいのだ。
だが、霊はやり返すことをとどめる。
こうして私は、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という律法を結果的にだが守っていることになるのである。
私が守っているというより、私の内側のものの働きによるようだ。
全ての律法を遵守できるとは到底思わない。
しかし内住の聖霊を宿す私たちは、「あのでくの坊何もやりかえさねーよ」とか罵詈雑言を浴びつつも不思議とやり返すことはなく、御父との平和という世にはない満足感を手がかりにして日々歩んでいくのだと思う。
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