"There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus, who do not walk according to the flesh, but according to the Spirit." (ローマ8:1 NKJ)
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英語聖書NKJから引用。
"condemnation" とは、excite辞書(http://www.excite.co.jp/dictionary/)によれば「有罪の判決,罪の宣告」という意とのこと。
好んで英語聖書を引用しているのではなく、この"condemnation"ということばの方が分かりがいいのではと思う。
自らの罪にさいなまれる私たちは、十字架と復活のキリストとの出会いによって罪赦され、「いのち」をいただく。
では、その私たちはもう罪を犯すことがないかというと、アダムの肉を持つ身としてそんなことは決してない。
だが、罪を犯しても、もう罪の宣告がされないのである。
赦されているとは、そういうことだ。
キリストとの出会いは、常に聖書のことばを介してである。
聖書の言葉、それは上に書いたような字面通りの意味を遙かに超えて、読む人に「いのち」を放り込むことがある。
聖書のある一句が読む人に、莫大に大きな救いを与える。
そういうとき、どの訳の聖書か、あるいは日本語か英語かということは関係がない。それも全く関係がない。
聖書の「ことば」とは特定の訳出の枠に収まらずに突き抜ける、いわば霊的なことばなのだ。
このような莫大な出会いがあったのち、我々は朽ちかけている肉に頼ることをやめ(第一頼りようがない)、代わっていただいた霊が生きる上での原動力となる。
私たちは誤りも犯すし恥もかく。以前から変わるところはなにもない。
だが霊という原動力は、そうであっても私たちに日々を力強く営ませてくださる。これはもはや理屈ではない。
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英語聖書NKJから引用。
"condemnation" とは、excite辞書(http://www.excite.co.jp/dictionary/)によれば「有罪の判決,罪の宣告」という意とのこと。
好んで英語聖書を引用しているのではなく、この"condemnation"ということばの方が分かりがいいのではと思う。
自らの罪にさいなまれる私たちは、十字架と復活のキリストとの出会いによって罪赦され、「いのち」をいただく。
では、その私たちはもう罪を犯すことがないかというと、アダムの肉を持つ身としてそんなことは決してない。
だが、罪を犯しても、もう罪の宣告がされないのである。
赦されているとは、そういうことだ。
キリストとの出会いは、常に聖書のことばを介してである。
聖書の言葉、それは上に書いたような字面通りの意味を遙かに超えて、読む人に「いのち」を放り込むことがある。
聖書のある一句が読む人に、莫大に大きな救いを与える。
そういうとき、どの訳の聖書か、あるいは日本語か英語かということは関係がない。それも全く関係がない。
聖書の「ことば」とは特定の訳出の枠に収まらずに突き抜ける、いわば霊的なことばなのだ。
このような莫大な出会いがあったのち、我々は朽ちかけている肉に頼ることをやめ(第一頼りようがない)、代わっていただいた霊が生きる上での原動力となる。
私たちは誤りも犯すし恥もかく。以前から変わるところはなにもない。
だが霊という原動力は、そうであっても私たちに日々を力強く営ませてくださる。これはもはや理屈ではない。
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